愛と恋の違い(恋心が持つ偶像礼拝的側面) s

愛することと恋することは一見似ていますが、その二つには大きな違いがあります。その違いを知るには第一コリント13章の御言葉を「恋」に書き換えてみるなら、その違いがわかります。


恋は不寛容であり、恋は不親切です。また人をねたみます恋は自慢して高慢になります。礼儀に反することをわるびれず、自分の利益を求め怒るし、人のしたことを根に持ちます。不正もやりますうそもつきますがまんなんかできないし、 もう誰も信じられない期待は裏切られ、すべてを耐えることができません恋とはなんとはかないことでしょうか


なるほど、聖書は反対の意味で、見事に恋について描写しています。つまり、聖書が言うところの愛と恋と言うものは、まったく別物であり正反対のものなのです。

もちろん恋愛感情のすべてがそのようなマイナス面ばかりではありませんが、その危険性を知っておく必要があります。私は恋をしてはいけないといっているわけではありません。しかし、自分がしていることにどのような意味があるのかを知っておく必要があるのです。

さて、恋することの反対は失恋です。失恋とは人生の中でかなりの破壊力を持つ出来事のひとつです。昔ある友人が失恋した時にこう言っていました。「親が死んだってこんなに悲しくは無いんじゃないのだろうか」と。

特に片思いの恋愛というのはもともと、実体がなく、つまり何も失っていないにもかかわらず、「大きな喪失感をもたらす」という点においては、驚くべき破壊力といます。もともと、実態がないもの、むなしいものを恋い慕うという意味において、それは「偶像」に近いものがあります。

■恋が持つ偶像礼拝的な要素
たしかに、恋愛にはある意味「偶像礼拝」的な側面があります。エゼキエル書などの預言書を中心に20もの聖句の中で「恋すること」が外国の神々を恋い慕う偶像礼拝のたとえとして出てくるのです。

エゼキエル23:5 オホラは、わたしのものであったのに、姦通し、その恋人、隣のアッシリヤ人を恋い慕った。23:6 彼らは、青色の衣を着た総督や長官で、すべて麗しい若い男たちであり、馬に乗る騎兵であった。23:7 彼女は彼らと姦通した。彼らはみなアッシリヤのえり抜きの者であった。彼女は恋い慕った者のすべての偶像で自分の身を汚した。

このように聖書の中で恋に関する記述を見るときに、ほとんどが否定的な意味で使われています。新約聖書には「恋」という単語は一言も出てきませんが旧約聖書には、「恋するという意味」において全部で37箇所登場します。そして、その多くが否定的な意味で使われているのです。

参考資料:「恋」という単語の用法 (新改訳聖書)
否定的な意味 6箇所  たとえ比喩として 1箇所  恋なすびという言葉4箇所  
なつかしむ意味で 2箇所  恋愛として 5箇所  偶像礼拝に関する 20箇所

偶像礼拝であるなら、そのもたらす影響はなんでしょうか。

(詩篇115編4章〜8章)
 彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。
115:5 口があっても語れず、目があっても見えない。
115:6 耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。
115:7 手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。
115:8 これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。

恋するエネルギーによって一時的には何かエネルギッシュに目標に向かっているように見えるかもしれませんが、その結末は、この言葉にあるように、人々の感覚を麻痺させてどこにも進むことができないようにさせるのです。


恋心を持つ感情は神が人に与えたものです。その目的はただ恋愛を楽しむためではなく、本来は結婚を促進させるためのものであることを理解し、私たちは謙虚に捉える必要があるのです。