聖書の言葉はいくつもの峰を重ねてみるようなもの(15/05/20)


聖書の言葉は一つの意味だけでなく時代を超えて何度も当てはまる事柄について語っています。

それは、山の上から他の山の峰を眺めたときに、遠くにある峰と中距離にある峰が重なって見えるようなものであるとたとえられます。


中には、(ホセア11:1)のように聖書の言葉(マタイ2:15)によって解釈されなければその言葉がその状況に当てはまるなどとはなかなか想像がつきにくいこともありますが、確かに多くの箇所は1つだけでなく、2つも3つも、時代を超えて別の状況について当てはまることがあるのです。

イエス様がこの地上に来られたときに、宗教的指導者は彼がメシアではないかと考えながらも、結局は「そうではない」と判断しました。その理由は、イエスのイメージが彼らが抱いていたものとは異なっていたからです。
そのような勘違いが生じた原因は、メシアについての預言は初臨と再臨の二つがあるのですが、王として地上を治めるために来られる再臨のメシア像を初臨のイエスに求めたことにあります。

たとえば、(ヨハネ12:34)で群集が「「律法によると、キリストはいつまでも生きておられるはずだ」と語ったのは、再臨のキリストについて語っていることでしたが、人々は知らなかったのです。


興味深いのは、ひとつの聖書の箇所が初臨と再臨の両方について書いていることがあります。

たとえば、(イザヤ書61章1節〜4節)はイエス様に関するの誕生について語られた預言的な言葉ですが、これは再臨と初臨の二つについて語っているのです。それゆえイエスがシナゴーグでこの御言葉を朗読した際に(ルカ4章16節〜21節)、彼は、イザヤ書61章2節の途中で朗読を中断したのです。

彼は、イザヤ書61章2節の途中で朗読を中断したのは 初臨においてキリストに与えら得た使命はその箇所までだったからです。


ですから、バビロン捕囚の前後に数多くのイスラエルの回復に関する預言が語られましたが、それは、ペルシャからの帰還と再建についてだけではなく、現代のイスラエルの回復についても当てはまる言葉なのです。


今日私たちは、イザヤ書43章4節を引用して「私は高価でたっとく、神に愛されている」といいますが、本来その言葉は、イスラエルに対して語られたことばです。

それでは、私たちは尊くないのでしょうか?

そんなことはありません。その言葉は「イスラエル」と「主につながる異邦人」の二つの峰に対して語られた言葉だからです。

ですから、置換神学がイスラエルに与えられた約束が、教会のものであると主張すること自体は、多くの場合間違いではありません。問題は、イスラエルを無視して、(すなわち軒下を借りているのに母屋の家主を無視する)考えることが問題なのです。

旧約聖書の言葉は基本的にはイスラエルに対して語られた言葉です。私たちがそれを受け取り励ましを受けること自体は何の問題もないのですが、イスラエルに対する神の約束は終わったと考えるならそれは別の極端なことなのです。