どうして私たちは旧約の律法を守らなくても良いのか (15/05/22)


キリスト教ではの伝統的には、「キリストが律法を終わらせたので(ローマ10:4)もう律法を守らなくても良い。」と教えます。

この回答は100%間違いではありませんが、そういいきってしまうときに大きな問題を含んでいます。 そのひとつは、先の(マタイ5:17〜20)の宣言である「律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません」との矛盾です。

実は「律法を終わらせられた」という訳は正確ではありません。正しくは、「成就させた」です。


■(1)異邦人なので

それについて理解するひとつのポイントは、「律法はユダヤ人に与えられたものであって、異邦人に与えられたものではない」ということです。
事実、ユダヤ人に与えられた戒めは(使徒15:19-21)に書かれた「偶像、不品行、絞め殺した物、血」だけでした。

しかも、文脈からしたら、それですら「それらが安息日ごとに諸会堂で読まれている」がゆえに、ユダヤ人の習慣とあまりにも違いすぎるとユダヤ人と異邦人が一緒にやっていけないがための配慮であることが伺えます。


しかし、そう説明するときに、別の疑問が生じてしまいます。それは、「それだったら旧約聖書に書かれた約束や励ましの言葉はクリスチャンには当てはまらないのでは?」という疑問です。

それについて説明するのに、ひとつの原則を理解すると良いでしょう。それは「旧約は新約の写しと影である」(ヘブル8:5)ということです。

すなわち、旧約の記述を明らかにしたのが新約聖書です。新約聖書の教えは異邦人に対して「旧約の律法を文字通り行うこと」ではありませんが、その本質を行うようにと伝えています。

ですから、たとえば異邦人が律法の一言一句を守る必要はありませんが、(ローマ2:14−15)にあるようにその本質を守り行う必要があります

そして、仲介者であるイエスキリストがおられるので、それを完全に行えなかったとしても責めを感じることはありません。(その寛大さはキリストの十字架のあがない故になされたものですが)

本質が大切なので律法主義的になるこっとはない聞かされると、あまり厳しそうには見えないことでしょう。

確かに、律法が与えられたひとつの目的は、(ローマ3:10−20)(ローマ7:14−25)にあるように、私たちには律法を守り行うことができないことを思い知らせるためでもあります。


■(2)霊の律法は律法の本質を行うこと

それでは異邦人クリスチャンに対する教えは、旧約の律法に縛られない上に、新約の戒めすら破っても良い」というような都合の良い教えなのでしょうか?

そんなことはありません。実は、要求されていることは旧約の律法以上なのです。
たとえば、旧約の律法では十分の一をささげるように要求しています。

しかし、新約聖書ではそれ以上なのです。(ルカ11:42)で「十分の一をささげているのだからこれでよいだろう。」と考えているパリサイ人にイエスは「ただし他のほうも、なおざりにしてはいけません。」と語り、そのほかにも必要なことがあることを示唆しました。それはもちろん、文中にあるように「公義と神への愛と」さらに「隣人愛」についてなのでしょうが、ささげるという意味においてはどこまでなのでしょうか?


■(3)霊の律法の方が基準が高い

それは(マルコ12:41-44)にあるように、私たちのすべてをささげることです。

もちろん、これは生活費のすべてをささげなければならない。という教えではありません。ただ「すべてをささげる人をイエスは評価された」という記述です。


■(4)ただし、達成できないことには寛容である。

旧約聖書では神の聖さのきわみまで達することは誰にも要求されてはいませんでした。しかし新約では(第1ペテロ1:16)神の聖さに預かるほどに聖さを要求されています。

それと同時に、不完全な人に対しては寛容です。

わかりやすく言うなら「できなくても許容されるから、より高いレベルを目指しましょう」というものです。つまり、献金に関して言うなら、「十分の一という基準を定めてはいるが、自分自身のすべてをささげていく方向に人生をもってきましょう。」ということです。


■(5)われわれは途上であり、アクティベーションすることが要求されている。

その違いはいったいどこから来るのでしょうか。それは次の2点によります。

1)アクティベーションという概念

2)キリストが仲介者なので

その理由は「どうして新約の預言は間違えることが許容されているのか」という理由に似たところがありますので、次の記事「旧約の預言者と新約の預言者の違い」が役に立つことでしょう。


そのようなわけで、今日、すべての人が預言をすることができるように、すべての人が神の聖さのレベルに達するほどの聖めという目標が与えられているのです。

それは日々の聖霊との交わりなどといったアクティベーションによってなされていくことなのです。一般的な神学用語で言うなら、それあ「聖化」の過程にあるということです。