花婿なるイエスをしたい求める祈り


終末の時代における神の御業について知るには黙示録を読むべきです。そして、 黙示録の最後の方にこのような御言葉があります。 御霊も花嫁も言う。「来てください。」(黙示録22:17)

この言葉の意味について知るには 主イエスを恋い慕うことについて書かれた個所を見るべきです。

雅歌 5:6) ・・・愛する方は、背を向けて去って行きました。あの方のことばで、私は気を失いました。・・・

雅歌5:8) ・・私は愛に病んでいる.


まず、知らなければならないことは「主の隣在を求めることと花嫁のようにイエス自身をしたい求めることは別だということ」です。

私たちは賛美し礼拝し祈るときにいつでも主の隣在を感じることができます。 長時間賛美したり礼拝したり祈るときに主の隣在はますます大きくなっていくでしょう。

しかし、それそのものが必ずしも花婿なるイエスをしたい求めることとは異なるのです。

エペソ1:13-14) に「聖霊は証印であり御国を受け継ぐことの保証」です。

この証印という言葉はギリシャ語では(arrabon)で印鑑、指輪という意味があります。聖霊は婚約指輪のようなものです。

夫となるべき人と離れてすんでいても、結婚を控えた女性が婚約指輪を見るたびに共に住む日に思いをはせるように、私達は賛美の中で臨在を感じるたびに花婿に思いをはせることができます。


しかしながら、婚約指輪は指輪であって、花婿本人ではありません。賛美の中でいくら臨在が高まっても・・・すなわち婚約指輪が大きく輝いても花婿本人はそこにいません。

花嫁のようにイエス自身をしたい求めるというのは究極的には再臨を待望することです。

しかし、それはどんなに求めてもまだ実現が不可能なことです。

それはある意味片思いであるといえます。

もちろん教会とイエスとの関係は片思いではありません。

しかし、黙示録19章1−9節)にあるような小羊の婚姻の現場を目の当たりにすることに比べたら、それは片思いにすぎないほどの弱い関係です。


片思いというのはものすごいエネルギーを持っています。

たとえその人があなたのことを相手にしなかったとしても、どんな高い山にも登り、どんなに深い海にでも潜るでしょう。それぐらいのエネルギーがあるのです。

相手にされていない片思いであっても、巨大な慕い求めるエネルギーを生み出すとするなら、私達を愛するイエスの対してであるならどれほどのエネルギーが生み出されるでしょうか。

そのエネルギーによって祈ることが「花婿を慕い求める花嫁の祈り」なのです。


ですから、これは必死で求める祈りです。ソーキング(浸される・臨在に浸される)祈りとは少し違います。 もちろん似た要素はあります。何時間も主の愛に浸されただ、受け取ることもできますが、しかし、求めるエネルギーがあるのなら求めるべきです。

ですから、この種の祈りをするためには、霊の賛美や異言で祈るのが良いでしょう。

そして、できるだけ長時間祈るべきです。