クリスチャンホームの建て上げ 「御言葉を信仰に結び付けさせる」


先に技術的なことを書きましたが、子供に御言葉を教えるということは、単に記憶させるだけでなく、その御言葉を信仰に結びついていかせる必要があります。

ヘブル (改)4:2 福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。

この御言葉が語っていることは、たとえ御言葉を聞かされても、それが信仰と結びついていかなければ無意味だと語っています。


ではどうすればよいのか?

1)情熱をこめて説明する。
2)証をともなって話す
3)祈りが聞かれることを体験させる
4)御言葉を行なわせる
5)訓戒を伴って御言葉を教える
6)間違った形の御言葉の実践をしない。


1)情熱をこめて説明する

実際的な方法としては、いかにもそれがすばらしいものかを情熱をこめて語る必要があります。
奇跡について語る場合であっても、何の感情もなくただ淡々と教えるのと、今日でも神様がなさっている奇跡の御業をの証を織り交ぜて語るのとでは受け取り方はぜんぜん違います。

たとえば、教会で証をするときに、病気の癒しをするにしても要点をぼかしてさらっと話す人がいます。

たとえば・・・「私は癌にかかってたのですけれど、祈っていただいたときに癒されてそれで、家に帰ったら犬が迎えてくれました。それで、え〜と・・・・

これでは何のことかわかりません。

「私は癌にかかっていたのですが、祈っていただいたときに癒されました!!!!ハレルヤー!!」
ぜんぜん違いますよね。

御言葉を解説するときに、感情をこめて情熱をこめて、語ってください。

イスラエルに行ってあるユダヤ人と話をしました。
彼らは出エジプトの体験を話すのに、まるでそれが自分が体験したかのように、また、つい最近の出来事であるかのように話をするというのです。

彼らにとって聖書の言葉は他人事ではありません。
自分の体験なのです。そのように教育を受けているからです。


2)証を伴って話す。
子どもに奇跡の証をすることに躊躇しています。
自分にそれほどの体験が無いというのも大きな理由でしょう。
しかし、別に自分の体験である必要はありません。
誰かから聞いた遠い出来事でも十分です。
奇跡的に備えがあったこと、奇跡の癒し、信仰によって歩んだ人の人生、それらの証をしてあげればよいのです。


3)祈りが聞かれることを体験させる

祈ることを励まして、祈りの答えが得れるなら、子供の信仰は大いに立てあげられます。
もちろん、これにはリスクがあります。祈りが聞かれないこともあるからです。
祈りが聞かれなくて失望することを防ぐためのひとつの方法があります。

A)それは、祈りとは自己実現ではないということを教えることです。

もうひとつはこちら

B)思い起こさせる、解説する

祈りが聞かれていても、気が付かないことがあります。
              願っていたものではないけれど、実際にはその祈りが益となっている場合もあります。
              それらは解説しなければ子どもにはわかりません。


4)御言葉を行なわせる。
大前提として、親自身が御言葉を行ない見本を見せる必要がありますが、いずれにしても御言葉を実践させることが重要です。

よくあるパターンは、問題が起こった時に、御言葉を提示して、それに従わせようとすることです。
たとえば、子供同士が、おもちゃの取り合いをしたとします。
親だったらどうしますか?
おそらく、止めるでしょう。そして、XXちゃんはおにいちゃんなんだから我慢しなさい。
などという指導はあまり良い方法ではないことは経験上わかると思います。

そうであるなら、聖書を開いて、「互いに愛し合いなさい」と教えるというのも効果的ではないことが想像できることでしょう。

ヨハネ 13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

もちろん、御言葉に基づいて指導することは聖書的だし、間違いではないでしょうが、 子どもが興奮状態にある時に効果的ではないし、時には逆効果でしょう。

そうですよね。
夫婦で言い争っているときに、夫が妻に「妻は夫に従えと聖書に書いているぞ。」なんていわれて素直に、あーそうです、私が間違っていました。なんていえますか?
言えないですよね。
そんな事を言ったら「夫は妻を愛せよと聖書に書いているわ。」といって御言葉による泥試合になることでしょう。

大人が出来ないことを子どもに押し付けてはいけません。


じゃあ、どうすれよいのか。

問題が起こった時に、実際、その場でどうするかはケースバイケースですし、知恵がいることなので、今ここでは取り扱いませんが、
御言葉を行なわせるという意味で、普段からどのように指導するのかについて説明します。

それは、子どもが御言葉に書いている行動をしたときに、御言葉を用いてほめるのです。
たとえば、
子どもが誰かに自分の持ち物を分け与えたときに、ほめます。
ほめるだけでなく、御言葉を開いてほめます。

ヘブル 13:16 善を行なうことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。
新改訳聖書では、「持ち物を人に与えるのを怠ってはいけません。」です。

ヨハネ 13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

「おもちゃを分けてあげたのえらいはねえ。XXちゃんがした事は聖書に書いていることなのよ。イエス様はとても喜んでいるよ。」などといってあげるなら、本当に子どもの心の中で御言葉と信仰が結び合わさるのです。

御言葉のとおりに彼らを作り変えようとするのではなく。
彼らを観察し、良い行動をほめて、御言葉に結び付けるのです。

これは逆転の発想ですね。
このようにするなら、彼らは自分の行動と御言葉を結びつけることが出来ます。
そして行動が信仰と結びつくのです。


この教えはよいものですが、これは普段の生活の中で行っていくことです。
ですから、問題が起こった時に訓戒してはならない、という意味ではありません。
それについて、次のテーマがそれについて説明します。          

5)訓戒を伴って御言葉を教える

子どもが問題の行動をするときに、子供を戒める必要があります、多くの場合それはスパンク伴ったものでしょう。
この時間最初に使徒の働き20章の御言葉を分かち合いました。

使徒(使徒言行録) 0:32 いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。

使徒20:31 ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。

パウロがどのようにしてエペソの教会を恵みの御言葉にゆだねることが出来たのでしょうか?
それは、彼が3年の間昼も夜も訓戒してきたからです。
3年間昼も夜もということは、文字通りに読むなら、1000回以上訓戒してきたということです。

子どもが御言葉を受け取れなくなる原因のひとつは、子どもの霊が眠っていることです。あるいは心が浮ついていることです。

懲らしめのムチがそれを断ち切ります。

箴言 22:15 愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る。


6)間違った形の御言葉の実践をしない。

御言葉に書いてあるからという理由で子供に不適切に我慢させることはあまり良い方法ではありません。

いじめを受けたような場合、どの御言葉を用いてどのように指導するでしょうか。
あるいは、いじめとまでいかないけれど、一緒に遊んでいたお友達から意地悪や攻撃を受けたときにどう対処するのがよいでしょうか?

もちろん、ケースバイケースですが、良く用いられる御言葉が次の言葉かもしれません。

マタイ 5:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。

しかし、子供の間の問題において、この御言葉を教えるだけではバランスを欠いていることが多々あることでしょう。

これには2つの問題があります。
これは聖書が言うような悪いものに無抵抗でいなければならない状況ではないと思われることです。聖書が語っている状況は、無政府状態、他国による搾取、そのようなどうしようもない状況を前提に語られています。

たたき癖のあるお友達について書かれた御言葉ではないでしょう。

境界線の問題。
多くの問題は境界線をきちっと取らないことにあります。

されていやなことはいやだと意思表示することによって、相手のエスカレートをとめることが出来ます。

ガンジーの無抵抗主義はどうして効果があったのでしょうか?

それはイギリス以外の世界中のジャーナリズムがそれを報道していたからです。ジャーナリズムがそれを報じなければ、中国に侵略されたチベットのように誰にも見向きもされなかったことでしょう。



ある小学校2年生の子どもは、ある同年代の攻撃的な友達に悩まされていました。
その人はただ、ライオンの子供がじゃれているだけのつもりなのかもしれませんが、だんだんエスカレートしておりました。

攻撃的な子供の場合、自分が何をしているのかわからないでやっていることが多いです。それが痛いことであることを理解させる必要もあるのです。

そのような状況の中で、適応されるべき御言葉のひとつはこれかもしれません。

マタイ18:15 また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。 18:16 もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。

もちろん、子どもにこの御言葉どおりのことを実践出来るわけではありません。しかし、実力行使で教えることが出来ます。

上記のような状況の中で、ある日、娘はその子を柔道の技で倒してやったのです。
その日以来、その子はとてもおとなしい友達になり仲良くなったのです。


セルフ・イメージの問題

聖書の命令だということで不当に扱われるときに、クリスチャンでいることがばかばかしくなるでしょう。