クリスチャンホームの建て上げ 「子どもを神と出会わせる(子どもから信仰を遠ざける要素)」


子どもが神と出会うという言葉の意味には大きく分けて二つの意味があります。

1)自分が罪人であると自覚してキリストを救い主として信じること。
2)神の存在を実感し、神を知る。

クリスチャンホームの子ども達であっても、人生のある時点で、自分が罪人であると自覚してキリストを救い主として信じる必要があります。
生まれつきのクリスチャンはどこにもいません。

では、何をどこまで信じたら、信じたことになるのか?
それは、あまり気にしないでください。
子どもというのは信じやすい性質を持っていますので、クリスチャンホームであるなら、ぼんやりとですが、すでに信じています。

そんな気休めを言っても、御言葉に根拠が無ければ説得力がないので、それを示したいと思います。


子どもは親の信仰によって救われる
親の信仰によって救われる。という言い方は誤解を生むかもしれません。しかし、私達は誰の信仰によって救われたのか。私達ががんばって信じたからでしょうか? 信仰は神様が下さるものです。

マルコ2章の中風の男は誰の信仰によって癒されたのか、それは4人の友人の信仰によってです。

私達は誰の信仰によって救われたのか? それは信仰の創始者であり完成者であるイエスキリストの信仰です。
今から500年前、ルターは「信仰によって救われる」という偉大な真理を回復させました。
それは素晴らしいことですが、それではその信仰とは自分の力頑張って信じる信仰なのか?それともキリストの信仰を素直に受け取るだけなのか?


次の二つの御言葉はがんばって信じることではないことを物語っています。

ガラテア3:22 しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。

ローマ3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

日本語はおろか、ほとんどの言語では正確に翻訳していませんが「イエス・キリストを信じる信仰」の部分は「pisteos Iesou Christou英語では(faith Jesus Christ)」です。すなわち「イエスキリストの信仰」


もちろん、人が救われるには自分が罪人であることを自覚し、罪を悔い改め、キリストを信じる必要があります。
しかし、その信仰とは、頑張って信じることではなく、キリストが持っている信仰を受け取ることだけなのです。

子供にとって親とはキリストのような存在です。
もちろん、子ども自身、罪を悔い改めてキリストを信じて受け入れる必要がありますが、私達が救われたのはキリストが持っている信仰をただ受け取りに行っただけのように、親が持っている信仰を受け取るだけでよいのです。



ですから、心配しなくてよいのです。
あまりにも自然に、クリスチャンホームの子供たち神を信じることができるのです。
そんなこと言ってもちょっとと感じるかもしれません。
そうであるなら、招きをして一緒にイエス様を受け入れる祈りをすればよいのです。

クリスチャンホームの子ども達についていうなら、よく、聞かされる言葉は、いつ信じたのか良くわからない。というものです。

ローマ 10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。 10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

ローマ10:9−10の御言葉にしたがって、イエスを主と告白すれば救われるからです。

もちろん、これはマニュアル化された方法であって、これが全てではありませんが、目に見える形としてよい方法です。

デメリットとしては、後になって、本当に信じたのかな?という場面が生じると思います。
早ければ2歳で一緒に祈ることは出来るでしょうが、全部を理解して信じているわけではないでしょう。

もし疑いがあるなら、機会があるごとに祈ればいいのです。


劇的な救いは必要ない。

もうひとつ言うなら、別に劇的な救いを体験をする必要は無いと思います。
セミナーの冒頭でも分かち合いましたが、今日の教会の最優先課題が、産めよ増えよではなく、福音を伝えることになってしまっています。
それはそれで良いのですが、その影響で、福音を伝えるのに役に立つことがもてはやされ、そうでないもの価値が低いとされる傾向があるように思います。

すなわち、福音を伝える上で有効な、劇的な救いや、変えられた人生の証が値打ちがあるものとされてしまい、過去に犯した罪が大きければ大きいほど、神の国のために有益なクリスチャンと認識されるようになってしまいました。

あるクリスチャンホーム出身の青年が、元ヤクザのクリスチャンにあこがれて、刺青を入れました。別に刺青をしてよいかどうかという話をしているわけではありません。ただ、言いたい事は、彼は刺青を入れたクリスチャンにあこがれてそうしたのです。

クリスチャンホームで気が付いたら神を信じて、大きな罪を犯さず成長したといった証が値打ちが低いものとされてしまっているのです。
そのおかげで、クリスチャンホームの子ども達のアイデンティティーが低くされてしまっているのです。

ある小学生の男の子がこう言っていました。「僕も中高生になったらぐらいに一回神様から離れないとだめなのかな〜。でもめんどくさそうだな。」
しかし、実際には同でしょうか? どちらが値打ちがありますか?
価値観が混乱しているのです。

伝道者の書 10:7 私は奴隷たちが馬に乗り、君主たちが奴隷のように地を歩くのを見た。

この御言葉は、本来値打ちがあるものが低くされてしまっている状態をあらわしています。


それは、教会が使徒的、預言的な視点を失った結果だと思います。
五役者ではなく、牧師、教師、伝道者の3つだけでだけでミニストリーをするようになりました。その結果、教会の活動というものは、伝道者的な視点が中心になってしまいました。
すなわち、劇的な改心がもてはやされるのです。

マルコ16:15 それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。

マルコ16章のような大宣教命令が中心になり、最初の命令がおろそかにされるときにそのような間違いが起こってきました。
もちろん、伝道することは大切です。

海での遭難救助の現場で最も優先されるのは命を救うことです。
しかし、救助され、陸についたなら、そこで増え広がらなければなりません。

神の国に正しい価値観を回復させなければなりません。
クリスチャンホームで、両親の愛にはぐくまれて、もちろん葛藤はあるでしょうが、大きな罪を犯さず、教会につながり続けた、子ども達、そして青年達が、どれほど力を持っているのか?霊的な意味でエリートであるのかをキリストの身体である教会に示していく必要があるのです。

クリスチャンホームの子ども達が成長したときに、さまざまな霊的なミニストリーに持ちいられているのを見ています。
とりなしの祈り、預言的な祈り、ひたすら主の身顔を慕い求める祈り、そのような霊的に深いミニストリーを中高生の時から行なうことが出来るのはクリスチャンホームの子ども達だけです。

教会の働きがただ伝道牧会だけであるなら、クリスチャンホームの値打ちはそれほど前面には出てこないことでしょう。
しかし、教会のミニストリーが霊的に深く入っていけば入っていくほどその真価が発揮されていくのです。

そういったクリスチャンホームの値打ちがはっきりと現れていかねばなりません。
アーメーン




ここからは、イエスを信じ受け入れ救われることではなく、もうひとつの、神の存在を実感し、神を知る、神と人格的な関係を築き上げていく」という意味での出会いについての話をいたします。


《前提条件》は子どもは自然と神と出会うように作られているということです。

親は子供が神に出会うことが出来るようにするために、御言葉を教えたり、教会に通わせることはとても有益です。
とはいえ、子どもの内側にもともと神につながる、神を信じる性質。単純であり疑わない性質というものがあるので、本来それは自然なことです。

植物を育てるのに、基本的に良い土、適度な気温、日光、適度な水、それがあれば自然に育ちます。
クリスチャンホームの子どももそうです。
クリスチャンの両親に育てられ、教会に通う。それだけで自然に育ちます。

ですから、どのようにして神と出会わせて神を体験させるのかということは心配しないでください。

子どもは自然に神様と出会うことが出来るのであるなら、何かしなければならないのではなく、
一番重要なことは、親が妨げないことです。


子ども達を妨げてはならない

(マタイ19:14 しかし、イエスは言われた。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」

A) 親による妨げ
これは大きなテーマです。

1)あせること

親は子供の成長を促そうとして、あせってしまいます。
先に語ったイントロダクションの中でも、子供に聖書を教えようとするあまり、あせってしまい、実際には親子の関係を悪くしてしまったという話をしましたが、他に、私達がした失敗について子ども達に尋ねたらこう答えました。

賛美の時に「もっと大きな声を出して賛美しなさい。」といってプレッシャーをかけていました。
そうするとますます声が出ないのです。

親の気持ちとしては、家族礼拝で賛美をしているときには、大きな声を出して賛美しているのに、教会の礼拝では、声が小さくなるので、ほんとうはできるはずでしょ。という意味で言ったので
最初から出来ないものを無理やり引き出そうとしていたわけではないのですが。


外見を良く見せようとすることは間違い

ひとつの判断基準は、外見をよくしようとしているかどうかです。
先ほど例に出した。
子どもが大声で賛美すること、手を上げて賛美すること。
これらは外見に属することです。
牧師の子どもだということで、良く見せようとする、そんな不順な動機が見え隠れしています。


2)ほめないこと

普通、ほめるかどうかという問題について語るときに、
肯定的な意味で、「子どもをほめましょう」というタイトルで教えをすることでしょう。
しかし、それではあまり緊急性が無いので、「ほめないことは害を与えることである」という教えをします。

多くの場合、ほめないというのは、「消極的な行動」ではありますが、「積極的に行なう悪」という認識はないと思います。
しかし、これれは悪であり虐待なのです。

先に話した、子どもにとって親と神様は同じような存在であるという説明の中で、人が神から受け取る一つ一つの言葉によって生きるというマタイ4:4:の御言葉を引用しました。
そして、その言葉の意味は子どもにとっては「親から受ける一つ一つの言葉による」という説明をしました。

親から受け取る言葉というのは何も御言葉に限定されるものではありません。文字通り、親が発する肯定的な建て上げる言葉は全てそうです。

親から受け取る言葉が霊的な、また魂の食物であるならそれを与えないことは霊的なネグレクトなのです。

 


3)ほめること
先ほど、ほめないことは害を与えることであるという話をしました。
けれども、ここでは、逆にほめることが妨げとなることについて話をします。

全く矛盾した話のようです。しかしいいのです。本当の教えは、二つの相反する事柄の中でバランスによって成り立っているからです。

子供を妨げることについて語っているのに、「ほめること」を挙げると少し混乱するかもしれませんが状況によっては害となるのです。
これは、先ほどの(1)の焦るあまりに子供にプレッシャーを与えるという出来事の続きです。

子供たちが言っていました。手を上げて祈っていたら礼拝の後でほめられたので、もうする気が無くなったと語っていました。
普通、教会の活動というものは、誰かが何かよいことをしたら、ほめたり励ますことが普通で、それには何の問題も無いように考えます。
しかし、実際には、その原則が通じないものもあるのです。

ですから、あることについてはほめてはいけません。
自然体でいさせることが大切です。
見分けるポイントは、ほめることによって子供を立て挙げているかどうか、それともプレッシャーを与えているかどうかです。

この話は、それと矛盾することです。
きちんと状況を見分けてください。


 失望させる

これは うそを教えることです。たとえばサンタクロースがプレゼントを持ってくるなどといったことです。


子供が神と出会うことは難しいことではありません。
そのように作られているからです。
しかし、そのために私たちはしなければならないことがあります。
妨げを取り除くのです。
そして癒しを促進させます。
そうするときにうまくいくのです。