クリスチャンホームの建て上げ 「子供の心を取り扱う」
子どもの必要は、それぞれの子どもによって異なります。親とより多くの時間を過ごす必要がある子どももいれば、そうでない子供もいます。
しかし、親にべったりの子どもではないからといって時間を一緒にすごす必要がないわけではありません。
ネットで検索すると、「手がかからない子どもは危険信号」とか「手がかからない子になり始めたときこそ、注意せよ。」などといったタイトルを目にすることが出来ます。
いい子であろうとして自分の心を押し込めてしまう。
願っても与えられないのであきらめている。
などといった、さまざまな原因が隠されている場合があるからです。
ですから、可能であるなら十分子供と時間を過ごしてください。特に母親は。
もし可能であるなら幼稚園や保育園に送らないで親子で時間を過ごすほうがよいでしょう。
しかし、実際には世の多くの家庭はそのようにしていません。
その、もっとも大きな理由は経済的な理由でしょう。
現在の日本では保育園に入りたくても入れない「待機児童」が問題になっています。昨年のデーターでは23,000人以上だそうです。
三つ子の魂百までも」という言葉がありますが、子どもの人格形成の土台は三歳ぐらいまでに出来上がるといわれています。
ですから、3歳ぐらいまでの取り扱いは非常に大切です。
しかし、子供を保育園に預ける別の理由としてあるのが子どもと時間を過ごすことが楽しくないからです。
楽しくないぐらいでしたらまだ良いのですが、苦痛である人もいます。
もちろん、楽しくなかったり、苦痛というのは理解できます、忍耐が必要な大仕事なのですから。
しかし、ある人は、いつもいつも苦痛ではないでしょうが、非常に、難しく感じており、実際に苦痛を感じています。
そのように感じてしまう理由のひとつは、価値観の問題です。
子どもが乳離れして保育園に子どもを預けて仕事をはじめることを「社会復帰」と読んでいる人がいました。その言い方はまるで、育児が重要ではないという価値観に基づいているように思います。
しかし、そういったことではなく、親が抱えている心の傷の問題で子どもと時間を過ごせない人がいます。
この親の心の問題が育児や子育てにおいてのかなり多くの問題の原因となっているのです。
子どもとどのように接するのか。技術的なことについては、さまざまな方法や知恵があります。
子どもに話をするときに、同じ高さの目線で話すとか。
感情と表情を一致させて表情豊かに話かけるとか
子どもの行動を頭ごなしに、否定するのではなく感じていることを理解するとか
そういった、技術的なことを学ぶことはよいことです。
本屋に行けばさまざまな本が売っていますし、ネット上にも情報があります。
とても役に立つことでしょう。
しかし、どのような技術であっても、その土台が無ければ有効に使うことができません。
それは親の心が健全であるということです。
たとえば、スパンクについて教えたとして、
その原則はそれほど難しいものではありません。1時間も学べばどうすればよいかはわかります。
しかし、それを実行に移すことは、難しい場合があります。
親から虐待を受けていた人は、スパンクするのは難しいでしょう。
ですから、子どものをどう取り扱うかという問題の一番最初は親の心が健全であるかどうかという問題なのです。
親子の和解
小学校低学年ごろまでの親子の和解
子どもの性質のひとつは赦して忘れるちうものです。
自分の親が心から謝るときに、それを根に持ったりしないものです。
もちろん、心に傷が残り、それが思春期に現れてくることはありますが、
子どもは基本的に親のことが大好きで、親が悪いとは思いません。
むしろ、悪いのが自分で自分自身を責めてしまうことのほうが多いでしょう。
ですから、謝るというのは有効な方法です。
謝罪することは親の権威をいやしめることではありません。
むしろ、尊敬されます。
なぜなら、子供はわかっているからです。何が正しいかどうかは大人が想像する以上にわかっています。
たとえ、愚かなことをして、うそをついたり、反抗する子供であっても、実は自分が間違っているということがわかっているのです。特にクリスチャンホームの子供は、そうです。
混乱を正すことができます。
たとえば言語の学習過程を思い浮かべてください。
生まれたばかりの子供は言葉を知りません。
どのようにして言葉を学ぶのでしょうか?
それは、体験を通じてです。
たとえば、「愛しているよ」といいながら子供を抱きしめます。「愛しているよ」といいながら優しいまなざしを投げかけます。そうするときに「愛している」の意味がだんだん経験からわかってくるのです。
けれども、愛しているといいながら、子供を虐待したらどうでしょうか?
言葉の意味がわからなくなってしまいます。
同様に、幼少の時代というのは、正しいことと間違っていることを経験で学んでいる段階です。
親が正しくないことをしながら、その間違いを認めないときに、子供の中に、何が正しいかを学ぶことにひずみが生じてしまうのです。
ですから、親が語っていることと、行動にむじゅんがある時に、それは不信感を生み出し、親を尊敬することが出来なくなります。
また、謝罪するときに、親が完璧ではないということを知ります。
それはまた、親が神様ではないということを少しづつ学んでいくきっかけとなります。
親が間違っているのにそれを認めないときに親に対して不信感が生まれますが、それは神に対する不信感へとなってしまうのです。
■ 全面降伏ではない。■
子どもに謝るといっても、親の権威を放棄するという意味ではありません。
間違っている部分は謝罪するけれど、するべき事はする。ということです。
謝罪するといっても、全面降伏ではないのです。
交通事故もそうです。
過失割合があります。
私がこの事故の責任を取ります。といっても、それは
自分の責任の範囲内で修理代を支払うということです。
子どもを育てるのに必ずしもホームスクーリングをする必要はありませんが、ホームスクーリングをする中でひとつの大きなメリットがあることに気が付きます。
それは親自身がまず取り扱われるということです。
ある意味、圧力釜です。 丸一日かかる煮込み料理の味が1時間ほどで出来てしまうのです。
子どもとの関係で煮詰まるところを通して、親が自分が抱えてきた心の傷や問題を取り扱われます。
子どもが学校に行っていたら、その分距離を置くことができる。母親も外に働きに出たら気晴らしが出来る。そのような逃げ場が無い環境において、親自身が自分の問題に向き合って、自分自身を変えていく以外に、方法が無いところにまで追い詰められるのです。
(詩篇139:23〜24)
(改)139:23神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。139:24私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。
私は、人の心が取り扱われて、過去の傷が癒され、間違った行動サイクルから抜け出すチャンスが人生で2度あると思います。
一度目は結婚したときです。
ぶつかり合いながら、あわせていく過程で作りかえられます。
二度目は子供が出来たときです。
別に、結婚したら一人前とか、子供が出来たら成熟した大人になれるとは言いませんが、実際的にはそれらの過程を通じて成熟した大人になるチャンスがより多く与えられるのは事実だと思います。
自分の心をかえりみる そのときは、心地よいものではありませんが、
ヘブル12:11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
神は、日々、私達を取り扱っています。
親がまず取り扱われる必要がある
親の偽善を取り除く
親の心の癒しと解放がなされていく必要があります。
■
世の人の場合、何が正しいかわかっていないので、どうすべきかすらわかっていないこともたくさんありますが、クリスチャンにとっての問題は、何をすべきかがわかっているのに、それが実行できないことにあります。
しかし、その問題は私達だけではありません。
(ローマ7:18) 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
パウロですら同様の問題を抱えていたのです。
子どもの心をゆとりを持って取り扱う
死亡というのは、はっきり目に見える出来事ですが、
実際には死亡していない子供達もその死んだ数の何百倍もの子供達が多かれ少なかれ傷ついて育っているということです。
それぐらいスキンシップなどいった人とのかかわりは必要なのです。
小さいとき、まだ歩けないときには抱き抱えるだけで自然とスキンシップになるのですが、大きくなるにつれ薄れてしまいます。
ですから意識的にそれをしていく必要があります。
ハグ(抱きしめること)
あらゆるスキンシップの中で、もっとも代表的なのはハグです。
世界中で、フリーハグのムーブメントが起こっています。
フリーハグってご存知ですか?
インターネットで拾った解説
“FREE HUGS”=見知らぬ相手とハグ(抱擁)をして、愛と平和を生み出そう!というものなのです。
どうしてそのようなムーブメントが出来たのでしょうか?
それは人の内に、抱きしめられる必要があるからです。
抱きしめるといったスキンシップの必要については、子どもによって個人差があります。
長女はそれを必要としているし、自分から求めてきますが
次女はこちらから抱きしめなければそうはしません。
いずれにしても、していく必要があります。
しかも継続して
そうでなければ、思春期に入るときに照れくさくなって出来なくなってしまいます。
スキンシップの種類
私達の家族は毎日ハグしてあいさつします。
それはとてもよい習慣だと思います。
私がはぐの話をある牧師としていたら、その牧師は小学校6年生の娘と今でも一緒にお風呂に入っていると誇らしげに語っていました。
私はハグする話をしているのにどうして一緒にお風呂に入る話をするのか私には理解できませんでしたが、それがスキンシップという意味で語っていることがわかりました。
けれども、言っておきます。それは正しい、スキンシップではありません。
これが、正しいスキンシップではない理由は先細りだからです。
いつか、それをしなくなるときが来ます。
確実に出来なくなるときが来ます。
そのような、先細りのスキンシップの方法は良くありません。
ハグは何歳になってもすることが出来ます。
ハグは したいからするのではなく、そうする必要があるからする。
何かをする場合、多くの動機というのは、それをやりたいかやりたくないかです。
しかし、それだけではいけません。
そうする必要があるからするべきです。
私の娘が11歳ぐらいになったときでしょうか、父親とハグをするのを照れくさく感じるようになりました。
しかし、父親は説明しました。
これが必要なことであることを。
納得しました。
実際には娘もそれを必要としていたのです。
次女はそれほどハグを必要とはしていません。
しかし、毎日必ずします。
言葉による表現
これもまた、日本人には不得意の分野です。
日本人が得意とする愛情表現は、相手に何かをしてあげる奉仕の行動であったり、贈り物です。
そういった文化はすばらしいと思いますが、スキンシップと同じぐらい欠けているのが、言葉によって愛情や励ましを与えることです。
しかし、言葉というのは重要です。
言葉というものは単なるコミュニケーションではありません。
神がこの世界を造られたときに、言葉を発することによって造られました。
人は神の似姿に作られています。
ということは神の性質の一部に預かっているということです。
神の性質のひとつは、言葉によって作り出すことが出来るということです。
(1)励ましと建て上げの言葉
(2)存在を喜ぶ言葉
(3)感謝
(4)愛を表す言葉