新月祭と安息日論争(17/3/10)


まったく守られていない安息日

安息日を守ると言うときに主に3つの点で論じられます。しかし今回の記事はそれら三つの点についてではなく、それとはまったく異なる次元の話です。

1つ目の安息日論争の問題は、安息日を守るとは礼拝出席を意味するのかどうかということです。日曜日に教会に来ない人は安息日を守っていないと考える教会があります。

2つ目は「それが意味することは実際に働かないことなのか、あるいは、その過ごし方はともあれ文字通り安息を取るかどうか」ということです。

いずれにしても、今日の忙しい現代社会において働くことを停止することは犠牲を伴いますが、何らかの形でリフレッシュの時を持つ必要があります。

三つ目には、どの曜日を安息日とするかです。
一般的に律法は変わることがないので安息日は土曜日であると考える人がいます。また、キリストがよみがえったのが日曜日の朝であると推測されているので、日曜日が安息日であるという考え方です。ちなみにロシア語では日曜日を「воскресенье ヴァスクりスィェーニエ」と呼びますがそれはほとんど音もスペルが同じのвоскресение「復活」を意味します。

もっとも日曜日に礼拝するようになったのはローマ帝国がキリスト教を取り込んだときに異教の習慣を真似て太陽神を礼拝する日(Sun day)としたのが始まりでした。

しかし、ここで話したいことはそういったことではありません。これまで論議されるのをほとんど聞かされたことがないような4つ目の事柄です。


聖書には曜日の名前が出てきません。あえて言うなら7日目の日を安息日(シャバット)と呼んでいます。この安息日についてほとんどの人は7日ごとに繰り返されるものだと考えますが、それは違います。
実際には新月の日から数えて7日目が安息日なのです。ですから、その7日ごとのサイクルは一ヶ月ごとにリセットされます。そして、月の運行は正確に24時間では割れないので、ある月は新月祭から28日目が次の新月祭ですが、別の月は29日目が新月祭となります。ですからある月はその月の最後の安息日から次の安息日までの間隔は8日間だったり9日間だったりするのです。

また、実際にはカレンダー上の新月より平均で1日遅れます。それは月が完全に隠れた日が新月祭ではなく、月が見え始めた夕刻から新月祭が始まるからです。

つまり、今日、Googleカレンダーで「Hebrew Calendar」や「Holiday in Israel」を読み込めば誰でも容易に新月の日や祭りの日程について知ることができますが、それですら、古来の定め方と比べたら1日ずれてしまうのです。

今日では新月祭はほとんど祝われてはおりませんが、旧約聖書には頻繁に登場し安息日と同じような扱いでした。それを廃止した理由は神殿崩壊によって、月を観測し新月祭を宣言するシステムがなくなったこととデアスポラ(離散の地)でも容易に共通の暦を持つことができるようにする為だったのでしょう。


いずれにしても、このような事柄がまったく問題とされていなかった事を考えると、どの日が安息日なのかという論争は無意味に思わされます。

しかし、神様にとっては問題ありません。なぜならパウロはこう語っています。

(ローマ 14章5〜6節) ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。14:6 日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。

ですから、このような記事を書きながら私自身も日にちのことは気にしていないのです。


(余談)

細かい話をするなら、ユダヤ教のカレンダーが一貫性を失っているのは今に始まったことではありません。

イスラエルの新年は秋に始まりますが、それはバビロン捕囚以後の習慣だと言われています。(出エ12章2節)で 「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。」と言われていたにもかかわらず。

また、そのときに月の名もアビブからニサンに変えられました。

イエス様の時代にでさえすでに複数のカレンダーが存在し、一日がいつ始まるのか、つまり夕方なのか朝なのかさえ、統一されていなかったようです。その混乱が、福音書における日付が矛盾している原因だと言われています。