「聖書的7つの賛美」の教えの4つの問題点の要約(ver.11) ( 2020 / 03 / 11 )s

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私がこの教えを最初に聞いたのは25年前(1994年)です。この教えにはいろいろ派生がありますので、この書き出しが全ての人が語る教えがに当てはまるわけではありません。ただ典型的な例を載せました。

この教えは、賛美礼拝に関する11のヘブライ語を全部書き出しNAS、KJV、新改訳の翻訳を調べたものです。


(1)そもそもほとんどが賛美する(ほめたたえる)と訳されていない
元々は、この教えの醍醐味は「聖書を読んでも『賛美する(たたえる)』としか読み取れないが、原語では実は多くの意味がある」というものだったと思います。
しかし実際にはそうでない場合が多いです。テヒラとハラルそしてヤダの三つを除けば419回中2回(新改訳の場合)NASでは4回、KJVで7回しかそのように訳されてません。


(2)全体的にこじつけの教えという印象がある
賛美の中で叫んだり手を上げたりひざまづくことは聖書的な手段なので、それを教えることはよいことです。
しかし、その教えを権威づけるために「ヘブライ語では・・」と言って、こじつけているような印象を受けます。


(3)第一の意味を第一としていない
「この言葉の意味は〜です。」と言いながら、実際にはそれよりも優先されるべき意味を無視しています。


バラク《1288. barak 330回》は「ひざまづく」と教えるが、主要な意味は祝福する。「神を〜」という場合は「神をほめたたえる」。ただし英語聖書ではblessed be〜なので、ほとんど(330回中316回)「祝福する」と翻訳。

★確かに現代語(barak)の意味はひざですが、聖書では「ひざまづく」と訳されているのはどの聖書でも3回のみ。

しかも七つの賛美の教えでは何故かいつも詩篇95:6を紹介されています。しかし、この節にはバラクの他にひざまづく系の単語が他に2つもあり、その他の単語のほうがひざまづくにふさわしいのです。
「ひざまづく」を教えたければ(7812. shachah.172回 )ひざまづく、礼拝する」という単語のほうがよいでしょう。

▼praiseと訳されているのは(NAS)(KJV)で0回、ただし新改訳で72回「ほめたたえる」「ほむべき」と訳される。
ひざまづくは新改訳、NAS、KJVとも3回のみ、創世記24:11(ただしラクダ) 2歴代誌 6:13 詩篇95:6。


ヤダ《 3034. yadah 114回 》の原語のもともとの意味は「投げる」です。
聖書では(NAS)の場合「感謝する67回、ほめたたえる19回、告白する16回」)と翻訳されています。

★しかし7つの賛美の教えでは、「手を挙げる」がほぼ教えのすべてです。
もし別の意味があると教えたいなら「告白する」のほうがよいと思います。16回もあるのですから。

☆(解説)それでもヤダは手と関係があります。元々の形は「ヨッド」という手を意味する単語だからです。ですから、「投げる」とあわせて「手を上げる」と深読みすることもできますが第一のものではありません。
ヤダの意味は感謝なのでその手は受け取る手であり、応答する手とも言えます。イザヤ56:5の「ヤド・バシェム」のヤドは「分け前」(新改訳第3版)と訳されています。そうであるなら「いけにえとして手を上げ続ける賛美しかし主から受け取るものではない。(つまり受けることを期待しない(?)」という派生形の教えはやりすぎだと思います。

▼「praise」と訳されているのは(KJV)で52回、(NAS)で16回。「ほめたたえる」を新改訳で35回

トダ《 8426. todah32回 》はヤダの派生の名詞形なので第一の意味は「感謝」です。同様に「告白」とも訳される。

★7つの賛美の教えでは、ヤダと同様に手を上げるとされています。

▼「賛美」と訳されている箇所は新改訳で1回(詩篇100の前文で「賛歌」)
NAS、INTで0回、KJVで6回。(詩篇42:2、詩篇50:23、詩篇56:12、詩篇100:0、エレミヤ17:26、エレミヤ33:11)


ザマール《 2167. zamar 46回 》は聖書中ほとんどは「歌う」と訳され、「楽器を演奏する」はありません。

★7つの賛美の教えでは「楽器を演奏する」あるいは「楽器と共に歌う」です。おそらく前者が教えの原型ですが、間違いに気づいた人が「歌うを」含めるために「楽器と共に歌う」と修正したのではないかと感じます。

私がそれに気が付いたのはジャック・ヘイフォードのワーシップ(ゴスペルライト出版)の教えが「歌う」のほうが強調されているのを見たからです。この本の教えは全体的にましになっていますが、それでも古い体質から抜け切れていない印象を受けます。

☆(解説)同じ語幹の(2168 zamar 3回)の意味が剪定、刈り込みなので「指で打つ」ことについてまったく根拠がないわけではありません。しかし「歌う」を飛び越えて「楽器演奏」について教えることはやりすぎです。

▼「賛美」と訳されているのはどの訳でも0回


シャバク。《 7623. shabach 11回 》元々の意味は「落ち着かせる、打つ」(聖書には「静める、誇ると訳出される)。

★「誇る」という意味があるので「大きな声、命じる、勝利、栄光」あたりはまだ良いのですが「静かにいることの反対」とする派生された教えはやりすぎだと思います。

▼「賛美」と訳されているのは新改訳で3回(詩篇63:3、伝道者8:15、詩篇117:1ほめ歌え)。(KJV)では(詩篇63:3、詩篇117:1、詩篇145:4、詩篇147:12。NASでは詩篇145:4のみ。 1.4.1


(4)もともと無い意味(たとえ意味があったとしても掘り下げねば出てこない意味)を教えている


テヒラ《 8416. tehillah 57回 》の意味は賛美、賛美の歌を意味する名詞形です。(語源はhalalu ハラル)

★7つの賛美の教えやその他の教えで「新しい歌」「霊の賛美」と教えられていますが根拠は不明です。
「詩篇」はヘブライ語で「テヒリーム」です。イームは複数形なので、詩篇そのものがテヒラの集合体であることがわかります。つまり、テヒラは単に賛美と理解したほうが自然です。

▼「賛美praise」と訳されているのは57回(NAS、KJV)、新改訳では多くは「ほめ歌を歌う」と翻訳されています。


この教えは要約です。時間があれば、さらにその根拠を書き出した資料を載せるつもりです。