レーマが預言的な神の言葉でロゴスが書かれた御言葉とは限らない。(19/03/09)

カリスマ聖霊派の教えの中で良く聞かれるのは、神のことばと訳されている言葉にはギリシャ語では2種類あって、ひとつはレーマ、もうひとつはロゴスである。
そしてレーマは預言的な神の言葉を意味しロゴスは書かれた御言葉である。」とされています。

多くの場合、その解釈で納得がいくように見えます。
たとえば、マタイ4章4節で、悪魔の試みに会われたときにイエス様は「人は神の口から出る一つ一つのことば(レーマ)によって生きる」といわれました。
確かに、私達の霊を生かすのに必要なのは聖書の字面をよむだけでなく、生ける神の言葉として預言的に主に語られる必要がありますね。

あるいは、エペソ6章17節で、霊的戦いの武器として「みことば(レーマ)の剣」をとりなさい。
とも言われました。

一方ロゴスはヨハネ1章1節に「ことばは神であった」とあるように
キリストご自身が聖書の言葉であると考えるとその解釈で納得がいきます。

しかし、実際には、そう割り切れるものではありません。
たとえば、預言的な言葉といえば、第1コリント12章8節に書かれた、知恵の言葉知識の言葉というものは、その解釈によるとどう考えても預言的なレーマであるべきですが実際にはロゴスというギリシャ語が使われております。

逆に、イエス様が王室の役人の息子を癒したときに、ヨハネ4章50節
「行きなさい。あなたの息子は治ります。」というイエス様のことば(ロゴス)を信じて癒されました。

ですから、レーマが預言的な神の言葉でロゴスが書かれた御言葉というわけではありません。このことは聖書翻訳者に直接質問して聞いたことなので間違いはないでしょう。


ちなみに、ヨハネ1章1節の 「「ことばは神であった」についてですが、この訳は正確な翻訳ですが。だからといって完全ではありません。というか完全な翻訳などありえません。

ロゴスを言葉と翻訳していますが、ロゴスにはその他にも「スピーチ、教え、表れ、声明、理由」など数多くの意味があります。

ですから、その意味を「ことば」に限定して、しかも、それが「ロゴス=聖書に書かれた言葉」と意味を限定してしまうときに、ヨハネ1章1節が持つダイナミックな意味が失われてしまう危険があるのです。