聖書は霊的な書物であるが書いていることの多くは人の行動についてである。(19/03/19)

聖書は霊的な書物ですが、道徳の書、生きる指南書、してはいけないことやするべきことについて書いている本であると世間一般では、考えられています。 確かに、その理解もあながち間違ってはいません。
聖書を開くなら、霊的な事柄というよりは、してはいけないことやするべきことについて書いているからです。

何故そのようになっているのかというと、霊的な事柄を動かすスイッチというのは霊的な事柄というよりも私達の普通の行動や魂の活動、意志や決心によってつかさどられているからです。
たとえば、罪の種類を「霊的な罪、魂の罪、肉体の罪」の三つに分ける方法があります。それによると、姦淫は肉体における罪だと分類されます。
それは確かにそうですが、そのような分類方法だと見落とされることがあります。それは、セックスとは霊的なものであり、それは霊的な罪であるということです。


第1コリント6章には遊女との関係に関連して、主との関係について語っています。それはつまり、祈りによって神様と霊的につながるように、不品行によって相手の霊とつながってしまうことを意味します。

つまり、聖書が結婚外の関係で性行為をしてはいけないというときに、それは、行動を規制しているだけでなく、霊的に汚されるのを避けさせるためなのです。

このことからわかることは霊的に成長するために必要なことは、日常生活の普通の行動も必要だということです。


神が聖書の中で、してよいこと、してはいけないことについて書いているのは人間に束縛を与えるためではありません。

工業製品には取扱説明書というものがあります。これはその製品の性能を100%引き出すため、また、間違った使い方をして壊してしまうことが無いためにあります。

そのように人を創造された神様もまた、人類の取扱説明書をかかれました。それが聖書です。

ですから、この聖書の記述は、私達を束縛するためではなく、100%その能力を引き出し、間違った使い方をしてつぶれてしまうことが無いようにするためにあるのです。