クリス・バロトン師「スピリット・ウォーズ 見えざる敵にうち勝つ」(19/03/19)


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悪霊を見分ける能力というのは、人々を解放するために力強いツールであるが、それをどのように使ったらよいかわからないと、自分がおかしくなったと感じることがある。
クリスチャンの多くは強い見分けの賜物を持っているが、霊的な雰囲気を感じているだけなのに、自分の感情が変化しているだけだと感じる場合がある。

見分けについては、「猜疑心」について気を付ける必要がある。「猜疑心」というのは、「見分け」の邪悪な腹違いの姉妹なのだ。それは見分けのようなふりをしてやってくるが、最終的には束縛をもたらすものだ。「猜疑心」というのは、恐れの霊によって利用されている見分けの賜物だ。たとえば、サウル王は、悪霊に悩まされていた。聖書では、「その日以来、サウルはダビデを疑いの目で見るようになった。」(Iサムエル18:9)疑いは、苦い思い、ゆるせない思い、また苦しみをもたらす。そしてついにはその人は霊的な囚われの身となり、暗闇に閉じ込められる。この牢屋を守る悪霊は、病気、うつ、憎しみ、殺人という名前をもっている。

私たちが誰かについて強い否定的な意見を持つならば、自分の「見分けの賜物」を信頼すべきではない。ソロモンは、「名声は多くの富よりも望ましい。」(箴言22:1)と言った。御霊の賜物の目的は、信頼を建て上げ、人々が神に信頼することを助けるものだ。御霊の賜物は決して人の評判をこわしたり、神への情熱を殺したり、彼らのアイデンティティを盗んだりするようなものであってはならない。たとえあなたの見分けが正しくて、確かに悪霊がある人を悩ませていたとしても、その人の評判は守られるべきであるし、その人の人格は神の似姿に作られた人として尊重されるべきだ。