聖霊の賜物&聖霊の実 (19/03/25)

(ガラテア5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、5:23 柔和、自制です。
(T11)
聖書には御霊の実として9つの実について書かれています。これは努力によって得るものではありません。ただ、キリストという木につながっていればいいのです。

聖霊の実と対比するものとして(第1コリント12章6節〜11節に書かれた)聖霊の賜物というものがあります。御霊の実が「人格」であったことに比較して、聖霊の賜物は「力」です。

力を伴わない良い人格は誰も傷つけないが、人格を伴わない力は危険です。聖霊派のクリスチャンはともすれば力を求めることに偏りがちですが、私達はまず御霊の実を求めるべきです。北朝鮮が核兵器を持つことに批判があつまっているのは、人格を伴わない国家が力を持つことが危険だからです。


勘違いしてはいけない事は、聖霊の賜物を発揮することと、その人の霊的成熟度、あるいは聖さは関係がないということです。ですから、極端な話、癒しの賜物が豊かに与えられている人が、大きな罪を犯し続けていたからといって、すぐに力を失うわけではありません。(ローマ11:29)「神の賜物と召命とは変わることがありません。」と書いている通り、神はいったん与えたものを、すぐに取り去るわけではないのです。

ですから、どんなに優れた賜物を持っている人がいても、それによってその人を信用したり判断したりしないでください。人を見るときには人格を見なければいけません。

クリスチャンの中にはイエスを信じて間もないにもかかわらず、預言の賜物や癒しの賜物を発揮する人も時にはいます。けれども、その人の心の傷が癒されていないなら、自己実現や人を自分の思い通りにコントロールするために用いてしまうことが時々見られます。
また、(特に霊的に未成熟なあいだは)サタンの攻撃の的になってしまうので、聖霊の賜物を発揮している人の中の決して少なくない数の人達が教会から離れたり、主から離れてしまう事が時折見られます。


聖霊の賜物を主が私達に与える目的は7節にあるように「みなの益となるため」なのです。つまり、キリストの体を立てあげるため、人を助けるためです。それゆえ、自分には聖霊の力が与えられていると感じる人は特に自分の心を吟味し、謙虚であり、人に仕えることを心がけるべきです。
また指導者に従うことも重要です。エペソ4章11〜12節にあるように霊的指導者を主が立てられたのは、
あなたに与えられた賜物を最大限に発揮するためだからです。もし、「自分はアドバイスを受けたくない」という人であるなら要注意です。

もうひとつ大切な点は、神は、まず少し力を与えて、その人がそれをどう用いるかを見ておられます。すなわち謙虚な心をもって、他の人の益のためにそれを用いるかどうかといった心の動機を見ているのです。ですから大切なのは人格なのです。

聖霊の力を発揮するのは大きく分けて3つのレベルがあることを知ってください。(1)誰でもできるレベル、(2)聖霊の賜物として特定の人に特に現されるレベル、(3)主が任命した役職としてのレベルです。

(3)のレベルとは預言に関して言えば、「預言者」と呼ばれる人達のことで、ごく限られた人が発揮できるレベルです。
(2)の段階は第1コリント12章に書かれた賜物についてであり、今まで説明してきたことですが、今から(1)の「誰にでもできるレベル」について見て行きたいと思います。

(マルコ16:17)「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、16:18 蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」

ここに書いている言葉は、「信じる人々には次のようなしるしが伴います」と書いているように、全ての人に与えられるレベルの聖霊の力です。ですから全ての人は聖霊の力により悪霊を追い出し、新しいことば(すなわち異言)を語り、癒しを行うことができるのです。
特に、癒しと異言に関しては皆さんが頻繁にそれらの賜物を用いていくことを私は願っています。癒しが起こるときに癒された人が益を受けるだけではなく。本人も、その周りにいる人の信仰も立てあげられるからです。