普段の昼食の中での真の聖餐、愛餐の本質を行う (22/05/26)
今日ほとんどのキリスト教会では何らかの形で聖餐式を行っています。
代表的な方法は、礼拝の中でパンと葡萄酒(ぶどうジュース)をとるというようなものです。
聖餐式の最も大きな意味はキリストの御からだにあずかるというものです。
パンはキリストの体を象徴しており、葡萄酒はキリストの血を表しています。そして聖書には「キリストを覚えてこれを行いなさい」と書いてあります。
つまり、これはキリストと一つとなることを象徴しており、キリストを再体験する時でもあります。
また信者たちがキリストにあって一つとされることを意味しています。
そしてまた、吟味してこれを行いなさいと聖書が言っているように、自分自身を顧みる時でもあります。
そのようなわけで、そのような時を持つことは大切なのですが、そこで生じがちな問題はこれが単なる儀式になってしまう事です。
そして、その本質から離れてしまうことです。
第1コリント11章を見るなら、当時の聖餐式は礼拝の中で行われていた儀式的にパンのかけらとわずかな葡萄酒をとるときではなく、食事の一環であったことがわかります。
実際、イエス様も、過ぎ越しの食事の中で行われました。
さらに言うなら、もしかしたら日常生活の中の聖餐式と言うのは、食事の中で儀式をしたというよりも、その食事そのものが聖餐式的な意味を持っていたと考えることもできるのです。
もし、それが儀式であるなら、「我先に食べる(11:21)」というようなことは起こらなかったでしょう。みんな宗教的におごそかになっているからです。
しかし、それがどっきりカメラではないけれど、実は普段の食事というものが信者の信仰や態度を図るためのものであったかもしれないのです。
しかし、その悪い態度がもたらす結果は破壊的です。「弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです。(11:30)」とさえ言われているからです。
ある人は、それは食事の中で行われる儀式的な聖餐式をきちんとしなかったからであって、普段の食事は別だよよと言うかもしれません。
しかし、34節で「空腹な人は家で食べなさい。そうでなければ、集まることによって、さばきを受ける」という逆効果な出来事が起こるというのですから、これは単なる食事の話ではないように思います。
そのように考えていくと、もし教会で集まる普段の食事が理想通りの形でないとしたら、それにも関わらず儀式的な聖餐式を行ってしんみりしているとしたらそれは偽善的なものかもしれません。
いずれにしても、普段の食事もイエス様をそこに招いたかのような愛餐の時であり、時に応じて食事の中で、あるいは礼拝の中で特別にパンと葡萄酒にあずかるときがあれば良いと思います。