信仰告白に導くことの問題点 (22/05/30)

今日確立されている伝道のマニュアル的手法というかツールの一つに「信仰告白に導く」と言うものがあります。

たとえ本人が十分理解していなかったり、十分な信仰を持っていなくても「告白には力がある」という考え方から、告白するときに信仰が与えられると考えるからです。

もちろんその考え方にも聖書的な根拠があります。(ローマ10:)にあるように、告白することによって救われるからです。

また、(第1コリント12:)では聖霊によらなければ誰もイエスが主であると告白できないと書いています。ですから、聖霊が働くように告白させるように導くのです。


この方法のメリットの一つは、明確に目標達成を実感できるという点でしょう。

人一人が救われて、成長していく過程と言うのはそれぞれの人によって異なりますし、一筋縄ではいきません。

ですから、誰かを救いに導こうとして、教会に連れてきたり分かち合ったりするのですが、なかなかその人が信じて救われたと実感しにくいです。

そもそも、教会に連れてくることすらハードルが高いのですから、通常は長い道のりです。


特にこの方法は、路傍伝道と親和性があります。

路傍伝道とは、路上や公園で出会った見知らぬ人に福音を伝えることですが、一般的な認識では難しいというイメージがあります。

しかし、そのイメージとは裏腹に、友人や身内よりもはるかに簡単な面もあります。

たとえば大通公園で個人的に話しかける形の伝道を1時間したとしたら、その中で1人ぐらい信仰告白に導くことはできると思います。

話しかける人にとってはつまずかせたらどうしようなどと考える必要はありませんし、話を聞きたくない人がいたら次の人に語り掛けたらよいだけのことです。

福音に対する反応は人それぞれなので、脈がない人に頑張って話すよりも、次々と人に語り掛けてかずうちゃ当たる形式のほうがよっぽど確率が上がります。

また、伝道されるほうにしても、別に個人情報を知られるわけでないのなら、「言っている話はなんとなくよさそう」と感じたら、ただ「この言葉を繰り返して告白しましょう、そうすれば救われます」と言われて、やってみたいと思う人がいたとしても不思議ではありません。

ただ、信仰告白をしたからと言って、その後教会に来る確率はかなり低いことを知っておかねばなりません。

それは、友人に対する伝道が、信仰告白させることは難しくても、教会に来させるハードルが低いのと対照的です。


そのようなわけで、路傍伝道というのは、教会に導きその人の霊的成長を見守るというのはおそろしくハードルが高いのですが、ただ、信仰告白させるだけというのであるなら、それと比べてかなり簡単なことです。

ですから、路傍伝道の目標が信仰告白の数であるなら、励まされて伝道を続けることができるのです。


しかしながら、路傍伝道で告白しただけで教会に集うわけではありません。

ライフハウスのように路傍伝道で新規の信者獲得に成功している(おそらく日本一)ように見える教会であっても、教会への定着率は低いですし、一旦教会を離れた後に別の教会に通うようになる確率はおそらく日本最低だと思います。

そのようなわけで、結局定着して霊的に成長する確率はあまり変わらないのです。


結論

信仰告白に導くこと自体は悪いことではありません。機会があればそうすればよいでしょう。

しかし、それはマニュアル化された方法によって、救いを促進させる一つの方法にすぎず、救いとは全人格的であり、過程があることを知る必要があるのです。