リバイバルを妨げるもの (23/9/22)
歴史を通じて何度もリバイバル(※)が生じました。
※ ここでいうリバイバルとは信仰復興の意味で、本来はキリスト教が根付いた地域や国で惰性化した信仰が真の信仰へと大規模で変えられていくムーブメントをさす。しかし、実際には単純にクリスチャンが急速に増えるムーブメントをさす場合も多い。それは歴史上において波のように、数十年、数百年かのサイクルをおいて別の場所で起こりますが、時には、十年=数十年の短いサイクルで同じ場所で起こる場合もあります。
しかし、かなりのケースで次のリバイバルの波が来たときに、それを妨げるのは以前のリバイバルを経験した人たちだということが起こっております。
それによって、リバイバルが思ったほどには盛り上がらなかったり、神様は働いているのに、結局は何もなかったかのように過ぎてしまう場合もあるのです。
世界中でそういったエピソードが起こっておりますが、聖書の中にも、そういった記述があります。
そう、御言葉のリバイバルがイエス様の活動を妨げたという出来事です。
エズラ記は、バビロニアに捕らえられた民がイスラエルの地に帰還し、神殿を再建する記録です。
彼らは、神殿再建をしながら、何が悪かったのかと自問自答をしておりました。その結論は、神の御言葉をないがしろにしていたということでした。
(エズラ10:1-3)にあるように、熱心に御言葉を守ることによって神の保護を受けようという情熱がわいてきたのです。
それで、徹底的に御言葉を守ることを誓いました。
それによって民族規模で悔い改めが起こり、イスラエルの再興が実現したのです。
これはつまり、御言葉のリバイバルです。神の言葉を忠実に行うムーブメントが起こったのです。
それまであらゆる問題の根源は偶像礼拝だといえるほど、イスラエルは偶像を拝んでおりましたが、この出来事以後、ただの一度も、そう今日に至るまでイスラエルは偶像礼拝の罪を遠ざけております。
つまり2500年前のリバイバルの影響が今日に至るまで続いているということです。
しかし、この出来事は勝利だけだったのでしょうか?
いいえ違います。
一つのリバイバル、一つのムーブメントに固執した結果、別の極端に入ってしまいました。
それは律法主義という問題です。
イエス様が、戦った最も大きな宗教的な力はその律法主義でした。
また、彼らは愛や憐れみを無視しました。マタイ23:23で「正義とあわれみと誠実」が律法よりも重要であるとイエス様が語られていたにもかかわらず。
しかし、最初からその兆候はありました。(エズラ10:3)においてその情熱は家族離散も辞さないというものだったからです。
このように、一つのリバイバルを経験したものは次の神様の動きを妨げてしまうことがあるのです。