問題提起をする人の言葉の本質を理解する (24/11/13)


<意図は> 人は、問題提起されるときに、それが自分に関することの場合にはその言葉を批判だととらえてしまう傾向があります。

もちろん、批判でも問題提起でも、そこから何かを学べるのであるなら、耳を傾ける余地はあるのですが、そのように考える牧師は少ないようです。


最近、牧師たちで集まるときに、小林拓馬さんの名前がよく出ます。

彼はYouTubeで活動しているオンライン教会の牧師です。

彼はキリスト教会のおかしい部分を批判する活動もしているのですが、まあ、彼の挑発的な話し方も相まって、彼を嫌っている牧師たちが多いようです。

確かに、私自身も、もっと戦略的に話をすればよいのにもったいないと思うこともよくあります。


しかし、私自身は、彼の発言を聞いても不快になることはありませんし、彼の教えに感化されて教会のメンバーがおかしくなったらどうしようとは心配してはいません。


確かに、私の周りにいる牧師たちの中で、彼の活動に好意的な牧師と、そうではない牧師がはっきり分かれているように思います。

彼に好意的な牧師の特徴は、彼の言い回しや態度、やり方を見ているのではなく、問題提起された内容を見ていることに気が付きます。


彼が人からどう思われようかは、私には関係ないことです。

しかし、もし教会が、彼の問題提起に耳を傾け、変えるべきやり方を変えることができたら、教会はもっと良くなるのにと思うことがあります。


たとえば、彼は日曜礼拝出席至上主義に対して批判的です。

多くの教会は、「そんなことを信じる人があらわれたら教会に人が来なくなってしまう。」と心配します。

つまり、自分が持っているものを失わせる敵対者だと感じるわけです。

しかし、私はそのようにはとらえません。むしろ、礼拝出席至上主義によって、失われるものが何かについて考えるキッカケを与えているととらえます。


たとえば、ほとんどの教会が日曜日に教会学校と呼ばれる子どもの為のプログラムを持っておりますが、その開催時間には大きく分けて2つあります。

一つは日曜礼拝の1時間前に教会学校を持つ方法であり、もう一つはSCGのように、一緒に礼拝に参加して、賛美の後に分級として教会学校を持つ方法です。

余分な部屋がもう一つ必要だということ以外は、一緒に礼拝に参加する方がメリットが大きいです。

別々の時間のデメリットは、

1) 子どもを礼拝の1時間前に連れてくると大人の負担が増える。

2)  説教の間、子どもがおとなしくしていなければならない。

そこで救われた人であればまだしも、選べるのでしたら、子どもがいる人はそのような教会を選ばないことでしょう。


そのようなデメリットだらけの方法をどうして選ぶのでしょうか?

いろいろ理由はあるでしょうが、今私が取り上げたい一つの理由は、教会学校の先生たちが礼拝に参加できるようにするためです。

それは、全員がきちっと礼拝を捧げれるようにするという礼拝出席至上主義の弊害であると言えます。


もちろん、教会学校の先生たちも礼拝メッセージを聞くことができれば一番良いです。

それでも、今の時代礼拝説教のアーカイブをオンラインで見れるわけですから、昔に比べて、デメリットは限りなく小さいです。


SCGの教会学校の先生やアシスタントたちが、後でメッセージを聞いているかどうかは私は知りません。私は聞いてほしいと思っていますが、それは個人の判断にまかしております。

自由意思に基づいたものこそ親の礼拝だからです。


話が長くなってしまいましたが、 そのように、古い考えに縛られるときに、本当に良い形に変化していくことが妨げられてしまいます。

どのような批判の言葉にも、一理の真理があります、語っていることの本質を理解しないで、「話し方が気に入らない、私の教会のメンバーを惑わしている、目上に対する尊敬がない。」などと言っていては、受け取れる益を受け取ることができないのです。


私たちは本質を見抜いて、批判や問題提起を柔らかい心で受け止めて、変わるべきことは変えていきたいと思います。