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聖霊の内住は神の律法を私たちの内側に置くことを意味する (25/05/20) キリスト教の教えでは「キリストを信じたらもう律法を守らなくても義とされる」という言い方をします。 その教えは間違いではありませんが、正確ではありません。 理由はまず第一に、私たちはユダヤ人とは異なり、元々律法の元にはいないのだから、「律法を守らなくても・・・」義とされると言われても、困ります。 正しい答えとしては、「キリストを信じたら義とされる」というのが適切です。 参考の御言葉(ローマ8章1−7) どうしてそれによって義とされるのかというと、一般的な説明では、キリストが私たちの身代わりに十字架で死なれ、罪の処罰が終わったので、彼を信じるだけで義とされるからです。 この説明も正しいですが、でもある人は疑問が残るかもしれません。 旧約聖書でさんざん律法と言われているし、ユダヤ人たちは律法によって与えられる義を追求してきたのに、どうして律法というものがなかったかのようになってしまうのだろうか? ただ、信じるだけで良いと言われても戸惑ってしまうと思われるかもしれません。 その疑問は確かにその通りです。 その件について、(エレミヤ31章33節)と(エゼキエル36章26-27節)から見てみるなら 旧約の律法は今日私たちに与えられている神の霊である聖霊であることが分かります。 ですから、御霊に従って歩むときに(ガラテア5:16-18)に書かれているように、「御霊によって導かれているなら、律法の下にはいない」という状態が生み出されるのです。 律法の要求が満たされる為に、御霊という形で、私たちの心の内側に律法が置かれたというのは興味深いですね。