5日目・9月10日・学びのテーマ:達する、制限を与える

5日目:達する、制限を与える

聖書の中でとりなしという単語(ヘブライ語でパガ)がどのように使われているかを見ていきましょう。

(ヨシュア19:11) その境界線は、西のほう、マルアラに上り、ダベシェテに達し、ヨクネアムの東にある川に達した。

この「達した」という言葉の動詞に「パガ」が使われています。すなわち「とりなし」という言葉の中に「達する」あるいは「制限いっぱいまで満たす」。という意味があるのです。

先に、本当のとりなし手はイエス・キリストなので、私達のいのりは彼の御心の事柄について祈るというような話をしました。

それはすなわち、イエスが与えた範囲内の枠いっぱいに私達の祈りを達っさせていくことを意味しているのです。


また「パガ」の別の意味は制限を与えるです。

そのたとえ話を見てみましょう。

自分の土地にゴミが不法に投棄されていました。そこには何も表示されていなかったからです。すでにゴミが捨てられていたものですから、他の人も、そこにゴミを捨てるようになりました。

その場合、その土地のオーナーは一方的な被害者なのでしょうか?そうではありません。彼はゴミが捨てられることに対して何の意思表示もせずにただ状況を嘆いていただけなのです。

これは今日の教会において見られることです。霊的戦いをすることなく、癒しを願うこともなく、経済の祝福を奪っている存在に立ち向かおうともしない。ただ状況を嘆き、ぼやきを主に訴えているだけなのです。でもそうであってはなりません。

この土地のオーナはどうしたでしょうか。彼は自分がするべきことをしたのです。まず自分の土地にあるゴミを捨てました。彼はそのゴミは自分が捨てたのではないから処分する義務は無いと思っていました。もちろん彼が捨てたわけではありません。しかし彼は自分に対してなされた不利益に対して「ノー」といわなかったことに対して責任があるのです。

聖書には「神の国は激しく奪うものである」(マタイ11章12節)と書いています。私達は行動的でなければならないのです。

そしてゴミを捨てて欲しくない場所に、「ゴミ捨て禁止」という看板を立てたのです。そうするとどうなったでしょうか。もちろんそれ以後誰もゴミを捨てなくなりました。

これは霊的世界において、祈りと宣言によって敵の働きと侵入を「ノー」といわねばならないのです。


デボーションのテーマ

思い巡らしましょう。

1) 私達が達していくべき領域はどこまででしょうか。

2) 私達が敵に侵入させてきた領域はいったいなんでしょうか。


祈りの課題

日本の政治の為に


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