断食2日目・5月24日(月):価値観が変えられる

黙示録2章10節に迫害や殉教についてが書かれています。

たしかに、この終わりの時代に、私達はそのようなことを意識している必要があります。

「お前にその覚悟があるのか?」と聞かれて正直に答えるなら、

「はい」と即答できるほど自分が成熟しているとは思えません。

しかし、主は「その時に主の恵みが与えられる」と約束しておられます。

参考ルカ12章11節〜12節


だからと言って私達は、主の恵みに期待して何も準備しなくてよいわけではありません。「平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせよう」というエレミヤ書12章5節の言葉にあるように。いざと言う時に堅く信仰に立つことができるかどうかは、主の恵みだけではなく、普段のライフスタイル、すなわち抱いている世界観にかかっているのです。

21世紀の日本において、あからさまな迫害によって投獄されたり、殺されたりすることは無いかもしれません。それは迫害が存在しないからではありません。価値観がこの世に染まっていることによって、そのような目にあう前に容易に妥協してしまうからです。


そのような時代を前にして私達はどのような準備ができるでしょうか?

「その時に主が恵みを与えてくださる」と言ってただ待っているだけではだめなのです。私達のライフスタイルを変え、生活の価値観を変えていかねばなりません。

私は16歳の時から27年間オートバイに乗り続けてきました。しかし、昨年あっさり売り払いました。オートバイに乗ることが悪いことではありません。それが偶像になっていたわけではありません。

しかし、世の終わりの時代に向かっていく前に一度生活をリセットする必要があると感じたからです。


もし、私達が快適さを自分から抜け出そうとしないなら労苦が私達を追いかけてくるでしょう。

私はみなさんが苦しみに追いかけられかろうじて信仰を保っている状態でいてほしくはありません。

断食をする意義もそのようなものです。自ら苦しみを追いかけるなら、私達は敵を追いかけることができるのです。そしていつくしみと恵みが私達を追ってくることでしょう。


現在、試練を通っておる方々もおられると思います。しかし、この事を知ってください。試練を経て忠実さが試され証明された皆さんには黙示録2章17節にあるように「新しい名」が与えられるのです。

私にこのような教えを書く資格があるとは思っていません。私はただ自分を打ちたたいて従わせているのです。