(04)2日前
断食は預言的
2月に開催した連鎖断食の「断食とはキリストのいのち命を体験するとき」 という記事を通じて断食によって私たちの霊が生かされることや、それが霊的なトレーニングであることをこれまで見てきました。
今回はそれに加えて、別の角度から見てみましょう。
もちろん、どのような断食であってもそれは尊いものですが、朝食だけを抜く断食や夕食だけを抜く断食のように食べたり食べなかったりする断食ではなく、継続した形の断食、そしてできれば(4日〜5日以上)の断食をすることを勧めています。
より長い断食を勧めるのにはさまざまな理由がありますが、そのひとつは断食における体の変化が霊的な預言的行動となるからです。
普段の人間の体は栄養を体外から受け取って生活するモードになっております。人は食物をとらなくても数週間生きることができますが、普段の生活モードから、内側の力(すなわち脂肪分)で活動するモードに切り替わるまで3日ほど時間がかかります。
「断食は最初の3日間が苦しい」とよく言われるのは、そのモードが切り替わるまでの移行期間なのです。
実はこの「脂肪を分解して生きる」ことは「内側の力」すなわち聖霊の力によって生きることの預言的行動となるのです。
4日目に入ると、それまでの苦しさがうそのようになります。そして誰かが目の前で食事をしても気になりません。むしろ、食べていることが不思議に見え、「食べなくても生きていけるのにどうしてあの人は食べているのだろうか?」と不思議に見えるぐらい、意識が変えられます。
信仰によって生きる生き方もそれに似たものがあります。
人はいい意味でも悪い意味でも外から受けるものによって影響を受けます。
人はあれがひつようだ、これも必要だ、これさえあれば幸せになると考えますが、実際には、どれだけものを手にしても満足することはありません。
メーテルリンクの青い鳥の話ではありませんが、実際に必要なものは自分のうちにあるものです。まして、神の霊である聖霊を受けた私たちは神との関係だけが本当の意味で私たちを満足させるということを知っております。
世の価値観ではなく、信仰によって生きるというモードに切り替わるなら、私達は世の価値感に引っ張られることはありません。私たちは世の人が見栄や快楽の為にお金やエネルギーを使っているのを見るときに、(断食中に食事をしている人が奇妙に思えるように)まったく別世界の奇妙な行動に見えます。
つまり、断食によって私たちは世の欲望から引き離され、信仰による生き方を促すのです。そしてそれは私たちの人生に揺るがない土台を作るのです。
信仰による生き方とは「山上の垂訓」と呼ばれるマタイ5章〜7章に書かれた生き方です。
(マタイ7章後半)これらの言葉とは、5〜7章 (マタイ7:24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
ここに書かれた「わたしのこれらのことば」というのはイエスが語られたすべての言葉というよりも、直接的には、この山上の垂訓で語られた言葉です。
つまり、山上の垂訓の言葉はこのように生きなければならないという律法主義的な言葉ではなく「 このように生きるなら揺るがない土台を持った人生を作ることができる」という教えでもあるのです。