第35回連鎖断食と祈り

第6日目:恋い慕い待ち望む

教会は2000年もの間、花婿なる主イエスの訪れを待ち望んでいます。

今日、「ダビデの幕屋、365日の絶え間ない賛美と祈り」という流れの中で、主を恋い慕い待ち望む人たちが大勢起こされています。

「恋い慕う」というのは、普通に主を求めるのと何が違うのでしょうか?


その答えにはさまざまなものがあるでしょうが、私の経験から書かせていただきます。

私は7月から毎週一回8時間連続で祈る時を持っています。8時間何をしているのかと言うと、ただひたすら主を求めているのです。多くの場合ただ、ひたすら異言で祈っています。

何か啓示を受け取るためではありません。また、何かの必要を満たすためでもありません。ただ、慕い求めているのです。

この求め方が、以前には経験したことが無い種類のものであることに気がつきました。もちろん「主を求める」というのは何も今に始まったことではありません。これまでにも個人的な祈りの中でも圧倒的な主の臨在や主の訪れを感じることは日常的なことでした。

しかし、この「主を恋い慕う」ということが今までと違う点は、臨在を感じるかどうか主に触れられるか、どのような啓示が与えられるかどうかは二の次となっていることです。 

極端な話、ただ、一方的であったとしても、(この世的な感覚で説明するなら)たとえ片思いあってもかまわないので、したい求めているという種類のものです。


私たちは一般的に「主を愛する」という表現をします。愛と恋は似ているようですが、その内容はまったく違います「愛と恋の違い」という記事にあるように、「恋」には否定的な側面(対象を偶像化した一方う通行の思い)があります。

しかし、たとえ今それを得れなかったとしても「ひたすら主を求める」ということは、今日、主が望んでいることです。(テトス2章12節13節)にあるように「主の来臨を待ち望む」というのは、目先のことではなく、もっと長い目で見た、長期のスパンで主の再臨をしたい求めることだからです。

ですから、祈りによって主に触れられようが、御顔を仰ぎ見る経験をしようが、臨在を感じるか感じないというのは、最終的にはどちらでも良いことなのです。それこそ「主への愛に病んでいる者」(雅歌5章8節〜9節) だからこそなせるわざなのです。

「片思い」のエネルギーと言うのは、相手の反応によって変わるものではありません。もちろん主への思いは、一方的なものではありませんが、ただ、たとえそうであってもかまわないと思えるほどの情熱なのです。


デボーション

主を恋い慕い求めましょう。

現在花婿をしたい求めるキリストの花嫁の油注ぎが日本に注がれているのですから、以前とは違った形の求め方が出来るはずです。今までとは違った新しい思いではじめてみましょう。

人によってその方法はさまざまですし、有効な方法は異なるでしょうが、ひたすら主を求めるときを持ちましょう。異言で祈り続けるのはひとつの良い方法です。(私は自宅ではIHOPの24時間の祈りと賛美(外部リンク)を流しながら異言で祈っています。)