第2日目:新種のクリスチャンたち   

今日、神は終末の時代に向けてこれまでとは違った種類のクリスチャンを建て上げています。
彼らは古い世代のようなしがらみがありません。
また、天が地に降臨するワーシップ体験している彼らは、主とつながっている限り罪や誘惑に対する耐性が強いです。

とはいえ、彼らもスーパーマンではありません。 サタンはこれまでの方法が通用しないとなると彼らへの攻撃や誘惑はこれまでと違ったものとなります。 つまり、後ろから足を引っ張りとどめることができないのであるなら、後ろから押して勢い余って転ばせようとするのです。
霊的高慢や霊的混ぜ物、権威の秩序を乱すこと、また主の力を当たり前だと思う事が罠となりえます。ですから心を見張っていなければなりません。

神が建て上げようとしている彼らを聖書的な言い方をするならばナジル人(民数記6:1~21)です。そしてその大きな役割の一つはバプテスマのヨハネのように主の道を整えることでしょう。


バプテスマのヨハネは主の道を整えるものとして描かれています(ルカ1:15~17)。また、主の道を整えるという意味においては花婿を迎えに行く乙女(マタイ25:1-13)にも例えることができるでしょう。

つまり、終わりの時代に主が建て上げる新しい種類のクリスチャンとは花婿の友人(マタイ11:10~14)であり、花婿を迎える乙女達でもあるのです。

この愚かな5人の乙女たちはダメなクリスチャンの型であるようにメッセージで語られる事も多いのですが、今日は視点を変えて見てみましょう。少なくとも彼女たちは花婿を迎えるという重要な召しを帯びて特別に召しだされたもの達であり、そして誰よりも花婿の訪れをち望んでいた人たちです。すなわち、別の言い方をするなら彼女達は非常に預言的であったという事です。


この愚かな乙女たちの問題を知るなら、その罠が何であるかもわかります。召しと選びがあり預言的である彼らは、その霊的敏感さゆえに、自分が期待していた事がかなわないときに、フラストレーションを持ってしまいます。

愚かな乙女たちの問題はいったいなんでしょうか? 「予備の油を準備していなかった」という言葉から「油=聖霊」の象徴なので、聖霊を持っていないクリスチャンと一般的に解釈されています。しかし、今回はもう少し実際的な解釈をしてみましょう。

その問題とは「自分の予測した事態」が必ず起こると信じており、「予測がはずれた場合のリスク管理ができていなかった。」という問題です。

ルカの福音書に描かれた乙女たちの問題は花婿の訪づれの時を早く見積もりすぎていたということでした。もちろん、予測が外れることはよくあることです。しかし、問題なのはそれが外れた場合の対処をしていなかったことです。彼女達が予備の油を準備していなかったのは、花婿が来る時期を早く見積もり、しかもそれを確信していたためにプランBを準備していませんでした。つまり、ルーレットでいうなら「00」に全財産をかけてしまうようなものです。

主の再臨時期を予測し、見積もること自体は悪いことではないと思います。しかし、一点勝負はやめたほうがよいでしょう。
1993年~94年、2000年~01年、2007年~08年、2014年~15年などといったように毎回7年ごとに主の再臨の時(あるいは携挙の時)が来たという説が流れます。それはこれらの年が7年ごとの安息年にあたるからです。


しかし、その時はまだ来ていません。 そのしるしは、第2テサロニケ2章に書かれているような不法の人(反キリスト)がまだ現れていないことです。とはいえ、この反キリストは突然登場するわけではなく、歴史上何百年もかけて準備されてきたことです。(このことについては別の時に解説しましょう。) 

また、世の情勢を見ても、再臨の時期がまだであることを物語っています。

「主はまだ来ない」という教えをするのはちょっと心苦しいです。なぜなら、その発言は不信仰に思われるからです。終わりまでの時間の間だらだらしてしまうと考えられているからです。しかし、常に緊張感を持ち歩んでいるクリスチャンにとっては主の再臨がすぐではないからと言ってだれることはありません。逆に長期的な視点で戦略を立てることが出来るのです。

私はおそらく2028年~2030年頃ではないかと考えています。それを目安にしているだけなので、別のそうだと言っているわけではありません。ただ、世の情勢の流れと速さ、その他のしるしを見てそのあたりであろうと心づもりしているだけです。


話は少しそれてしまいましたが、いずれにしても、今日、祈りにおいて、霊的戦いにおいて、また使徒的、預言的働きにおいて召されているクリスチャンは、単に霊的なだけでなく、さまざまなことにおいてバランスを保ち、へりくだり、また霊的覆いを持つ必要があるのです。

私たちのすべてがナジル人として召されていないでしょうが、今、そのような時代であることを理解している必要があるのです。


■ デボーション

1) 新郎の傍らで喜ぶ花婿の友人(ヨハネ3:28-30)のように、また、主の来臨を待ち望む乙女のように主の訪れを目をさまして待ち望みましょう。

2)キリストが盛んになり、自分が衰えること(ヨハネ3:30)を求めましょう。