第4日目:しるし不思議

終わりの時代においてさまざまなしるしや奇跡がなされます。

しるし、奇跡の出所は主に次の4つです。
1)神の霊
2)サタン
3)人の霊
4)人為的演出

参考記事: しるしと奇跡の違い


1)神の霊
神はしるし不思議を行われます。
そのもっとも大きな理由は(マルコ16:20)にあるように「御言葉が確かである」ことを証明するためです。

ですから、基本的にしるしというものは聖書の言葉の裏づけが必要です。

もちろん、(ヨハネ 21:25)には聖書に書かれていることの他にも膨大な奇跡やみわざがイエスによって行われたと書いているので聖書に書かれている奇跡以外はしるしとは認めれないとは言いません。ただ、吟味せずにもろ手を挙げて受け取るだけであるなら時には混乱を与えるでしょう。

本当は、この神の霊によるしるし奇跡について多くのスペースを割くべきですが、それらについては他でも聞くことが出来るので、今回はあまり書きません。


2)サタン

サタンもしるし不思議を行います。それは人類の歴史上、占い、オカルト、魔術などといった形で行われてきました。それらはクリスチャンであるならおかしいと判断できるのですが、問題となるのは世の終わりにクリスチャンをも惑わす奇跡(マタイ 24:24)がなされることです。

どうして神はそれを取り締まらないのでしょうか?それは(マタイ13:24-30)にあるように、神はサタンそのものを終わりのときまで抜き取らないからです。

マタイ24章24節に書かれているのは「にせキリスト、にせ預言者」についてですが、そこまで大きな存在ではなかったとしても確かに敵の活動はますます活発に、ますます巧妙になってくるのです。

もうひとつの理由は次の(3)に書くように「人の霊の活動」が活発になるからです。

他にもさまざまな理由がありますが、いずれにしても終わりの時代には選民がだまされるというように、見分けが非常に困難になってきます。


ひとつの見分け方は、しるし不思議と同時に神の御業、救いの御業があらわれているかどうかです。

救いや解放の業、癒しといった聖書に書かれたしるし、すなわち神の御国を建設的に建て上げる奇跡が起こっていないのに、しるしだけが起こっているような場合には、建設的な奇跡が与えられるように求めましょう。


3)人の霊

人が霊的存在であるということは聖書が語る大きな原則ですが、その霊的力についての分析はこれまであまりなされておりませんでした。

ですから私自身も、何かを調べて多く書くことはできませんが、それでも、人が霊的存在であるならその霊にも力があり、主がすべての肉に私の霊を注ぐといわれている時代(ヨエル2:28-32)においては、同時にオカルトの力も活発になり人の霊が活性化されていくのです。

終末の一つのしるしは多くの人の霊的なチャンネルが開かれるという出来事です。

人が霊的存在であるなら、人にも霊的な力が備わっています。

人が直感的に感じること、夢を見たりまぼろしを見ること、将来を言い当てること。それらすべてを神の霊によるものか、人の霊によるものかをより分ける事は難しいでしょう。

つまり、クリスチャンではない人が奇跡や不思議なわざを行うのを見ても、それがすなわちすべてが悪霊の仕業であるとは言い切れないというわけです。

だからといって、私はそれらを肯定したり、「問題が無い」というつもりはありません。なぜなら、人は修行などによってある程度の霊的力を引き出す事はできるでしょうが、人の霊力には限界があるので、人は遅かれ早かれ神か悪霊のどちらかに霊的力を求めることになります。

人の霊が敵対する場合、従来の悪霊追い出しの方法はあまり効果的ではないかもしれません。クリスチャンに対してはなおさらです。神の霊と悪霊の力がごちゃまぜになることすらありうるのです。なぜなら神は終わりのときまで「両方を成長するがままにしておかれる」(マタイ13:24-30)場合もあるからです。

ですから、そのための見分けに必要なのは、その人本人の人格や霊的健康度です。


4)人為的演出

人為的演出には大きく分けて2つの事柄があります。ひとつは、戦争やストックマーケットの暴落といった人間の社会事件が特定のときになされるという意味での演出であり、もうひとつは奇跡的なしるしが人為的になされるという演出です。

サタンはリバイバルを恐れていない」(要ログイン) という記事にあるように、リバイバルというものが必ずしもサタンにとって脅威ではないというのは面白いことです。
アメリカで正義感をかきたてて、不法なイラク戦争の賛成を国民に取り付けたように、サタンに動かされている人たちにとってはクリスチャンはまだまだ利用価値があるので迫害するより多少成長してもかまわないと考えているのかもしれません。

ですから、空のしるしというのは、当てにならないでしょう。今日、雲やその他の気象を操作してなんらかの空のしるしを作り出す事はたやすいことだからです。

また、シュミータ(7年毎の安息年)に世界的な大きな事件が起こるからと言って、それによって神がその出来事をなさっているとかいうわけではありません。

たとば、2008年のリーマンショックに端を発したデフォルトを例にとって「安息年に借金がちゃらになった」という言葉をクリスチャンが語っているのを聴いたことがあります。
いったい誰が誰の借金がチャラにしたのでしょうか。今日の経済システムで借金がちゃらになることなどありえません。誰かが肩代わりしたり、誰かにしわ寄せが来ているのです。
単純な説明をリーマンショックを例にして言うなら、その発端はサブプライムローンの焦げ付きですがそれを利用して家を買った人達は家を失い借金だけが残ってしまいました。

そのうなデフォルト(債務不履行)といった富の強奪も聖書カレンダーにしたがって人為的になされるときに、それが何か神の介入があるかのように思わせられるので不思議です。

ただし、逆に言うなら、その時期に合わせて何か災害や経済危機をもたらすとするなら、それを予測する為にその原則を利用できるでしょう。そういう意味においては確かに2015年は目が離せないかもしれません。


■ デボーション

1) 聖書的な主の御業を求めましょう。

2) 霊的健康を求めましょう。日常の普通の生活の中に恵みを感じ主に仕えましょう。

3) 教会として、また個人として覆いとなる牧師、リーダーの元にとどまりましょう。