A番目の記事

−6(月曜日) (配信は日曜日)

バランスを取ろうとすることのリスク

「教え」というものはバランスです。つまり現状を見て、行き過ぎていることに対しいてはブレーキをかけ、少ないものがあるならそれを強化する役割が教えにあります。

つまり、現状の状態が偏ってしまっていると感じたならば、場合によっては、全く正反対の教えをすることもあるのです。

そうするときに、聞いている人は混乱してしまいます。今まで聞かされていたことと話が違うと思うからです。
特に、「教会で語られる教えさえ守っていればそれでいいんでしょ。」というような信仰を持っていた人にとってはそうです。

しかし、多くの場合、古い教えが間違っていたとかというようなことはありません。

たとえば、第1コリント7章あたりのパウロの教えを聞いていると彼は結婚に対して否定的であるように聞こえます。それでは、それまで、神が人類を創造したときから語られた「家族中心の価値観」は否定されたのでしょうか?そんなことはありません。パウロはただ、7章26節がいうところの「差し迫っている危機」に対する別の視点を提供しただけです。

そしてそれは、創世記から旧約聖書の全巻を貫いている。家族中心の価値観、子育てと信仰の継承、そして結婚や夫婦の意義という教えがあって、それを補足してるにすぎません。

ですから、新しい教えが異なっているように見えたとしても、古い教えによって傾いてしまった部分をバランスをとるために反対に見えるようなことを語っているだけなのです。


しかしながら、そういうことに気が付かずに、キリスト教会の歴史上結婚を禁じたり(カトリックは今でも)、家族よりも教会を優先したり(今日の多くの教会)したという歴史がありました。

そういった教会は、同性愛がはびこったり子供に対して性的虐待をしたりしてきました(今日のカトリック教会を含めて)、また衰退したり(今日の多くの教会)、カルト化したり(現在の一部の日本のキリスト教会)してしまったのです。


バランスについて学ぶためのたとえ

天秤ばかりを思い浮かべてください。どちらかに傾いている天秤ばかりに対してバランスをとるために重りを乗せて水平にしたとします。これをクリスチャン生活にたとえるなら、それは傾きを補正するために「教えをする」ことを表しています。これでバランスが取れるかもしれませんが、同じ重りを反対側のお皿に載せたらどうなるでしょうか?もっと傾いてしまいます。

これがバランスをとることのリスクです。このたとえ話に出てくるのは、一つの天秤でお皿は2つしかありませんのでどこに乗せるのか迷うことはありませんが、実際の教会には成熟度や状態が異なる大勢の人がいます。
そんな人たちに、説教壇から語る一つのメッセージを語るだけでは、きちんとバランスが取れるはずがありません。


現在教会では、特にユースたちのために「〜ねばならない」という考え方を取り去りたいと考えています。

それは形だけ従うような律法主義的な信仰があったならそれを取り去ることを目的地としています。

というのも、それは単にバランスをとる為だけでなく、クリスチャンホームの子どもたちは、親や教会が教える以上に律法主義的に物事を理解してしまう傾向があるからです。


特に現在とりかかっているのは結婚や恋愛、男女交際に関してです。

ところが、困ったことに、
律法主義的な考えを打ち砕き、バランスをとる過程で、以前の教えを否定しているように聞こえたり、ルールは無いと勘違いする人が出てくるかもしれません。

実際、先日の中高生の分級で、ダニエル書から「この世に飲み込まれずに妥協しない」という生き方について教えました。つまり、アルマ先生がした教えです。ただ、その内容だけだと厳しすぎると思ったのでその前に、律法主義的に規則に従うのではないという教えについて語る中で「ライフプレイスミニストリー的な男女交際と結婚についての考え方」という以前メッセージの中でもした話をしたところ、そちらばかりを受け取ってしまった人が数人いたようです。


このことは、バランスをとることの難しさを物語っています。


いずれにしても、私たちが持っていきたい方向は「キリストの御霊に導かれること」「主を第一とした生き方をすること」という土台があっての事なのです。


★デボーション

律法主義的な考え方から解放される過程で若者たちがバランスを崩して、へんな自由主義に走ることがないように祈りましょう。