国際法上無罪であった日本

先月、札幌のある教会で使徒的セミナーが開催されましたが、その集会の中でアメリカ人のある講師がアメリカの罪を公に悔い改めたいという発言をしたそうです。

彼は「戦後日本に多くの宣教師が送られたのは日本を弱体化させるための謀略であった。そのことを悔い改めたい。」と発言したのです。

。もちろんほとんどの宣教師は、純粋な動機で日本に来たわけですし、実際にはアメリカ自身も被害者なのであり、また、ほとんどの人は世界の裏のシステムを知らないのですから、いきなりそんな話を聞かされても、多くの出席者達は戸惑ったことでしょう。

ただ、この話を聞いて、私が感じた事は、そのようなことも公に語られる時代になったのかと少し感慨深くもありました。


さて、事実、敗戦後、日本を支配するためにさまざまな謀略がめぐらされました。そのもっとも代表的なのは、東京裁判(極東軍事裁判)によって罪責感を植えつけることでした。

クリスチャンの場合、感情や正義感が先にたって、日本が無罪であるということを受け入れる事はなかなか難しいことです。それは何も悪いことをやっていないという意味ではありません。ただ言いたい事は、ローマ4:15に「律法のないところには違反もない。」とあるように、法治社会においては、裁く法律が無ければ無罪なのです。
国内法の感覚では、理解できないことですが、国際法上、戦争を起こすことについて裁く法律は存在しないのです。

東京裁判には幾人もの判事が意見書を書いていますが、彼らの誰も国際法を知りませんでした。というか日本をつるし上げるための裁判だったので、意図的に知らないふりをしたのかもしれません。


唯一国際法に通じていたのはインド人のパール判事だけでした。「パール判事の意見書と予告


戦後の日本はGHQによって報道に制限がもうけられていたので、知らされていませんでしたが、この意見書は海外で多くの反響を生みました。


こういう話をすると。個々の出来事を持ち出して「このことに関しても日本は何も悪くなかったとでも言うのですか?」と聞く人がいます。私は何も悪いことをしていないといっているわけではありません。平時ではなく戦争なのですから、さまざまなことがあったことでしょう。 そういったことについて語っているのではありません。東京裁判において、裁きの対象となったことについて、国際法に照らし合わせると本来無罪であったと言っているだけです。

これまで自虐史観に浸されていた人にとっては、極端に聞こえるかもしれませんが、正常なバランスをとるためにはこのような知識も必要だと思います。