賢島とりなしレポート(15/10/23)

2015年10月13日(火)に三重県志摩半島にある賢島でとりなし祈りました。

実家がある大阪に帰省するにあたって、そこから伊勢志摩地方に小旅行に出かけました。

とりなしの目的地は 志摩半島にある賢島は来年のG8サミットの開催地です。
G8サミットは8年ごとに参加各国で開催地を持ち回りの為に日本においては2016年からさかのぼって8年前の2008年に北海道洞爺湖で開催されました。

ある意味、今回のとりなしツアーはそのときの続きです。
今回与えられた御言葉はイザヤ書41章でした。
それは2008年のサミット開催に伴って書いた「東から奮い立たされたふさわしい人としての日本」という 記事を読めばわかりますが、当然、今回のとりなしにとってもテーマとなるべき御言葉でした。

しかし、あまりにも直球だったので、意識的にそれを避けて、新しい御言葉と啓示を求めていましたが、当日の朝に確認がありました。私達は聖書通読の目安としてデイリーブレッドを使っていますが、くすしくも、その日の通読箇所はイザヤ書41章〜42章でした。

また、(イザヤ41:1-4)これらの御言葉は「島々よ。わたしの前で静まれ。」で始まり、5回もそのことばが登場します。たしかに賢島のある英虞湾は海岸線が複雑にいりこむリアス式海岸であり小さい島々があることでも有名です。
9月の札幌祈りの塔で日本を表すことばとして「島々」というキーワードが与えられていたのでそれらは確認であったように思います。

実家を車で出発したときに、子供達に今回の旅行の趣旨を説明し、御言葉を分かち合いました。そしてその後しばらく祈りましたが、車の中が聖霊に満たされ5歳の子どもでさえ情熱的に異言で祈っていたのが印象的でした。

4時間後、賢島にあるサミットの会場となる志摩観光ホテルに到着しましたが、ウインザーホテルのときがそうであったように、ホテルを閉鎖して大改装工事をしておりました。
とりあえず、そのあたりを散歩しつつ、異言で祈り始めたら空から猛禽が近くまで飛んでくるのが見えました。

猛禽はイザヤ書46章11節にあるように すばやく事を行う「使徒」の象徴です。


猛禽は私がとりなし祈り始めるときに確認のしるしとしてよく現れます。

一番象徴的だったのは、昨年宮崎で開催された祈りの大会で、ホテルの部屋に入り祈り始めたときに窓の外にすぐ近く現れたことです。これだけなら、偶然といえますが、その後そこでは一度も見ておりません。それはその宮崎でなされる霊的戦いの前兆でした。

その旅行の中で 2回目に見たのはその3日後に長崎のホテルで朝食を取っているときのことです。妻と食事を取りながら、宮崎で私の意図によらず知らない間に関わらされてしまった霊的戦いについて、「あれはいったいなんだったのだろうか?しかし、あのときに猛禽が現れたのは確認だったよね。」と妻に語りかけようとしたときに、後ろにいた子どもが「あっ、鷲だ!」と声を上げました。空には(そのホテルは高い位置にあったにもかかわらず)同じぐらいの高さを猛禽が飛んでいるのを見ました。


さて、賢島近辺で実際に本格的にとりなし祈るために定めた場所は賢島ではなく志摩観光ホテルとその別館を見渡せる対岸の海岸でした。

1)各国の代表は自分の国を代表しているというよりはその背後にいる勢力に動かされているのだけど、いずれにしてもすべてに勝り、国々の真の王はキリストであると宣言しました。

2)敵の策略の上に主の主権があるように。

3)この会合が悪魔的な力を地上に引き入れる場所になるのではなく、とりなしてたちが国々に対するとりなし祈りはじめるグローバルゲートとなるように。

最後に、角笛を吹き鳴らしました。すると、驚くことに再び猛禽が、しかも2匹飛んできたのです。そして吹き終わるとどこかに去ってしまいました。それもまた大きな確認でした。


このようなとりなしの祈りにどれだけ意味があるのか。疑問をもたれる方がいるかもしれません。確かに祈りの対象の大きさと比較するならたいした意味は無いように感じるかもしれません。
しかし、このようなことを通じてなされるもっとも大きな意義というのは、とりなし手を建て上げ、次の段階に導くということがあるでしょう。

実際、サミットの為に祈るときには、いつも代価を払うという意味においてのテストを受けさせられているように感じます。

2008年はウインザーホテルに宿泊し祈ったので文字通り高額な宿泊費が必要でしたが、確かにこのような国家的なとりなしの祈りには金銭に限らず何らかの代価が必要なようです。

今回は、この旅行を決めた後に、ある超有名アイドルとの絡みでテレビ出演の為に東京に招待されたのですがそれを断りました。

別の人との約束をキャンセルしたり、かなりタイトなスケジュールを入れれば出演も不可能ではなかったのですが、これは私の選択と価値観に対する試金石であったように思います。

世の終わりにおける、霊的戦いというのは、価値観や信じることとの戦いという側面もあると思います。
将来起こる迫害は鞭によってではなくゆるい縄によってなされる」 という記事を前回の断食の折に書きましたが、確かにこれからの時代は誰もが同じように解釈する聖書に明確に書かれていている事柄によってではなく、自分の信じることとの戦いでもあるでしょう。


200年のサミットのもっとも大きなテーマは「地球温暖化に対する二酸化炭素の排出」についてであり、原子力発電を大きく推進させるということが結論のひとつでした。しかし実際にはそれから2年たたずに、状況は大きく変わり、地球温暖化については生協のアナウンス以外では世間ではほとんど聞くことができないほどに状況が変えられていきました。(もっとも、地球温暖化は正確ではないでしょうし、二酸化炭素がその原因というのも利権のために作られたウソですが)

そのようにG8そのものは茶番劇ではありますが、それでも、祈り手達が世界の動きに対して興味をむけるための大きな機会となります。ですから、私達はサミットのために、またクリスチャン達が立ち上がるようにも祈るのです。

ローマ教皇が「キリストの十字架を不十分であった」。リック・ウオーレンが「キリスト教とイスラム教の融合」を唱ええている今。また、同性愛容認の影響がこの世界にすさまじい勢いで入り込もうとしている今、私達は闇の支配の働きについても目を向けていかねばならないのです。

私達がした働きは小さなものですが、この記事を通じて奮い立たされるものたちが起こされることを願います。それこそイザヤ書41章に書かれたように「東から日本を立ち上がらせる」ことにつながるからです。