今回この恵山・津軽海峡・恐山の祈りのツアーに導いてくださった主に感謝いたします。そして、このツアーの守りのためにお祈りくださった皆様に感謝いたします。

私がなぜこのツアーに参加したかったか、それは、昨年、ある方からなぜ北海道に新しい風が入らないのか、入ってもなぜ直ぐに消えかかってしまうのか?と疑問を投げかけられたことがありました。主に祈る中で、その昔、北海道に開拓の名目でいろいろな土地から移住してきた多くの人々はそれぞれに移住せざるおえない理由があり、そのことが心を深く傷つけ、見捨てられた思いや拒絶感を持っていることで、なかなか新しいことを受け入れられないと。さらに、津軽海峡になにかが壁のように立ちはだかり、風が通るのを遮っているから、との思いが与えられ、これを何とかしなくては、と感じたからです。そして、今年の6月末に神様より恐山の本来意味は主を畏れる山で畏山であり、人間が勝手に霊場として恐山と名前をつけた、という思いを与えられました。


7月に北海道で開催された祈りの祭典の祈りの中で沖縄の方々への謝罪と和解の時がありました。私はその場面を見ながら、なぜか心が痛みました。そして、突然、小学生の時に聞かされた年配の方から、第二次世界大戦時に、もう日本が負けるという時、もし稚内にロシアが攻めて来たら日本軍はそのまま逃げて北海道を切り捨てる予定だったと。さらに私が20歳の頃、東京に旅行に行くことがあり、内地という言葉の意味を深く考えずに内地に行く、と表現したとき、それをそばで聞いていた同じ年代の友人が顔を引きつらせ怒りながら日本は内地で北海道は外地で外国と呼ばれ、内地から外国と呼ばれて馬鹿にされてきた、北海道は日本だ、だから内地なんて言葉を使ってはいけない、と。私は怒りと痛みがともなった外地という言葉を思い出しました。祈りの祭典の時、北海道人として生まれ育った私たちはその概念を受け継ぎ、今もその言葉に心が縛られている人が少なからずいることを、そして、私の心の中にも悲しみと怒りがあることを、その時突然気づかされました。

この思いを主に委ねていた私に恵山津軽海峡恐山のツアーの参加が主より与えられました。


恐山で何を祈るべきか黙想していると、内地と外地の概念を打ち砕くこと、津軽海峡で北海道は日本の一部であることを船上で宣言し、恐山は主の山であることを祈るように与えられました。

10月13日の朝、主より北海道は柄、青森から沖縄までが剣、この間の津軽海峡が柄と剣のつなぎ合わさった部分、ここがしっかりとつなぎ合わせるために、外地と内地の概念を打ち砕き、つなぎ合わせ、沖縄から北海道をあわせて日本の国であることを宣言するようにと示されました。その思いを握りしめ出発しました。

移動の車の中で私自身がこのような執り成しの祈りが本当に初体験でしたので、どのように祈っていけばよいのか、私にそれができるのか、とても緊張した状態でした。

函館からフェリーで大間にわたり、薬研温泉に宿泊。その夜、リーダーから今回のツアーの目的と祈りの方向性を一致するためのミーティングがもたれました。


 その夜、就寝前におもむろに開いた聖書の御言葉がわたしの心に飛び込んできました。イザヤ書22章22節、「ダビデの家の鍵を置く。彼が開ければ、閉じる者はなく、彼が閉じれば、開く者はないであろう。」

という御言葉でした。2005年に来日したシンディ・ジェイコブス師がその御言葉を用いて力強く霊的な戦いの祈りをしていた姿が頭に浮かびました。

14日の朝の2時頃、突然目を覚ましました。神様がおこされた!と感じ、直ぐに何気なく聖書を開くと、就寝前と同じイザヤ22章22節の箇所でした。

主に祈る中で、古い歴史に幕を下ろし、その扉を閉め、鍵をかける、日本はイエスキリストの戦いの剣でありその役目を果たす国としての新しい歴史の扉をダビデの鍵で開けることを示されました。翌日、メンバーそれぞれが与えられたことの分かち合いの時、主から与えられたことにいつも自信の持てない私がこの印象的なダビデの鍵について話す勇気が与えられたことは感謝でした。


今回の祈りのツアーで、恵山恐山津軽海峡でそれぞれが与えられたことと、O先生が用意されていたエレミヤ51章の御言葉を用いて祈り、宣言することができました。(詳しいことは O先生のレポートを参照してください。)

すべての行程はなぜか不思議なほどに穏やかで心地よい空気につつまれ、心がわくわくして喜んでいると感じていました。

今から5年前に恐山に行きたいと感じてから、いろいろな方との出会いや、学びの機会が与えられ、そのたびに神様から多くの思いを与えられ、どことどこがつながっているか?と半信半疑のまま、心の片隅に置いておきました。その時々に語られたことが今、一つのより合わさるロープとなり、参加した4人の持ち寄ったロープがさらに強固な一致した祈りのロープへと主によって編み込まれたのを強く感じました。

主から与えられた言葉が突拍子もないように感じても、謙遜に祈り求め忍耐して待つなら、それが意味ある祈りとして時が与えられると、今回のツアーで強く感じました。

すべてにおいて主に感謝いたします。

SGH教会 K.M.