1章:序文
光を観ると書いて観光と読みます。本来の観光とはその土地を訪れて人々のいとなみ、そして歴史の光を見ることです。旅をするとは歴史の光と影を肌で感じ、見ることを意味します。
「国破れて山河あり、城春にして草青みたりと」とは松尾芭蕉の有名な奥の細道の一節です。松尾芭蕉は藤原三代の栄華と隆興の光と影を見て歴史とは何か人とは何かについて思いはせたのです。
もともとすべての旅行には達成すべき目的がありました。それは単に有名な観光地の景色を見てみたいというような安易な目的ではなく、(たとえ家族に会うためという一般的な目的であったとしても)危険を冒してでも、その人がそこに行かねばならない理由があったのです。
最初にヨーロッパの地を踏んだ日本人(天正遣欧少年使節・1584年)は2年以上かけてまさに命がけでたどりつきました。
そのような便利な世界に生きているのですから確かに風景を見たりするだけであるなら、かかる費用やその労苦を考えるとその場に行く必要はないと考える人がいることはうなずけます。
そういった疑問は、祈りをするためにその場所に行く必要があるか否かにも通じます。インターネット・ツールよりはるかに優れた神の御霊が空間も時間も越えて私達を祈りに導いてくださるから、現地に行く必要はないと考えることもできます。
しかし、本来の旅がそうであったように、時にはそこに行かねば達成できない目的というものがあります。歴史の光と影を見、空気を肌で感じるために現地に行ってとりなし祈るという意義があるのです。
また神は「あなたが踏みしめる地を与える」とヨシュアに約束されたようにその地を踏みすめることは重要なことなのです。だから先人がそうであったように、私達は外に出て行くのです。神が与えられる約束の地を所有するために。
父はわれわれを祈りに招いておられます。とりなしの創始者であり完成者はイエスです。私たちはその働きの一部を分与されているに過ぎません。
また、父はイエスが人とともにこの地を相続すること、同労者となること願っているので、すべてのことを神ご自身がなされるのではなく、私たちをその働きに招きいれてくださっているのです。
ですから、われわれは、うまく的確に祈るためにはどうしたらいいだろうかと心配する必要はありません。 間違えたらどうしようか心配する必要はありません。また、敵の攻撃や反撃と呼ばれるものを恐れる必要はありません。
真のとりなし手はイエスでありわれわれはその働きの一部を担っていることを理解し、主が定めた範囲内で動いていくならわれわれは守られ、必要は備えられるのです。
その出来事は主の導きによって始まったこの旅を預言的に表しているように感じました。