使徒について

15世紀の宗教改革の後、教会は多くの聖書的な事柄を回復させてきました。それでも使徒、預言者について一般的に語られるには20世紀の半ばまで待たねばなりませんでした。

といっても使徒とは特別な存在ではありません。エペソ人への手紙4章に書かれた11節に書かれた「使徒、預言者、伝道者、牧師、教師」と呼ばれる五役者のうちの一つであり、本来牧師や伝道者が普通に存在するように、使徒も当然存在するのです。

教会がそれまでイスラエルを無視しても福音宣教をなしえてはいたように、ある一定の時期までは使徒と預言者を教会が重要視しないことを神は許容しておられましたが、この世の終わりが近い今にあたって、神はそれらを力強く建て上げたいと願っているのです。

ですから、この先、もし福音宣教から使徒と預言者を排除してしまうなら5気筒エンジンの3気筒分のピストンだけで車が動いているようなものとなってしまいます。


たとえば、牧師は牧師という肩書きを持っていても実際には優れた「教師」であり、「伝道者」であることも少なくありません。同様に一人で五役者のうち2つ3つの召しを兼ね備えて持っている事もありえるのです。同様に牧師という肩書きを持ちながら実際には「使徒」や「預言者」としての油注ぎを受けている人も存在するのです。それは決して少なくない数だと思います。

使徒とは牧師の牧師であったり、あるいはたくさん教会を開拓した人というイメージがありますがそれは「使徒」が持つ一面に過ぎません。使徒の役割には(1) 方向性を与える。(2)土台を据える、新しく始める(4)地域支配の霊に対する油注ぎ。(5)解釈し調整を与える。などの他にも多くの特性があります。

「使徒が立ち上がっていく」という言葉につまずきが出ないように一般的な言い方で言うなら「そのような働きや機能がさらになされていく。」という事ができるでしょう。

もちろん、これらの働きや機能をに担っているからといって「使徒」の召命を持っているとは限りませんが、多くの場合の問題は、使徒という存在をあまりにも高く上げすぎて、自分自身もそれを認めなかったり、他の人を認めようとしない事にあるように思います。

また、ある働きに関わっている人達はそのような自覚が無かったとしても、「祈りの祭典in北海道」がなしてきた成果のように、神によって与えられた役割と果たしていく中で一つのグループやネットワークが使徒的に用いられていく場合もあるのです。

このテーマは深いものであり、注意深く説明したいので、この先何回かに分けて「使徒」が持ついくつかの特性や役割について書いていきたいと思います。