終末の見張り人 s
(レフトビハインドクリスチャンへの警鐘)

多くのクリスチャンが終末の時代に起こっている現状に対して必要レベルの関心を持っていません。関心を向けていくためにはその時代に応じた主が導かれる世界観を持つ必要があります。

20世紀まで教会が終末におけるサタンのアジェンダ(予定表・計画の意味)無関心であることを容認されていました。けれども、今の時代私たちは終末時代の主のご計画とサタンのアジェンダの進行具合を見据えていかねばならないのです。


「レフトビハインド」という小説がありました。これは面白い物語であり、また聖書的でもあります

でも聖書的だからといって必ずしも、その通りの事が起こるとは限りません。もちろん読者はそれぐらいのことは承知の上であるはずでしが、知らず知らずのうちに正しいとは限らない世界観に染まってしまうことは否めません。

それは、たとえ世の中がどんどん悪くなって問題が大きくなったり患難期に入ったとしても主が来られて私たちは天に引き上げられるから大丈夫だという世界観です。

そのような考えを持っていると、表面的に見える問題である戦争、貧困、道徳の退廃などに対しては、事が起こってから、祈りはするのですが、本来持つべき程の危機感は持ちませんし、その問題の根に目を向けようとはしないのです。 (※1)

(※)あるアメリカ人の牧師同士が、戦争のニュースを聞いたときに「End Time」(世の終わり)と言いながらうなづきあっているのを見たことがあります。
それは、危機を感じているというよりも、再臨が近いことを喜んでいるかのようでした。

もちろん問題の大元がサタンであることは知っているので、霊的戦いやとりなしによって対処するのですが、実際にサタンのアジェンダがどのような形で進行していくかに対しては目向けないのです。

つまりサタンと現実世界の中間的な存在目を留めることが抜け落ちてしまっているのです。


患難期前携挙説支持者は自分が患難に会わないと考えていますが

黙示録13章10節の「 とりこになるべき者は、とりこにされて行く。剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければならない。ここに聖徒の忍耐と信仰がある。」という言葉が、携挙の後に救われたクリスチャン(携挙に残されたクリスチャン)、あるいは信仰に入ったユダヤ人のためのものであるという解釈で本当によいのかという問題が残されているのです。


事実、患難前携挙説によって、自分は大丈夫だとクリスチャンが思うことによって、霊的にめむりこけてしまっているように思います。


私が「現実にも目を留めて祈りによってグ口ーバリゼーションに伴ってやってくるサタンのアジェンダを中止、あるいは遅らせなければならない。」と語ったら、ある人は「そんなことをしたら主の再臨が遅れてしまう。」といっていました。

その言葉は聖書に対する無理解から起こった勘違いです。それは主の再臨は世の中がどんどん悪くなって患難期が起こり、その前か途中か後にあるはずなので、再臨をもたらすためには患難期は来なければならない、極端な言い方をするなら「世の中が悪くならなえばならない」という思い込みです。

もちろん「世の中が悪くなればよい」などと考えている人はいないでしょう。ただ、人は何かに希望を見出したいものなので、悪いニュースを聞くときに、つまり希望を失いそうな状況の中で、「再臨」に希望を置き、結果として「悪い世の中」を容認するような発言をしてしまう場合があるのです。


サタンのアジェンダは中止、あるいは遅らせる必要があります。それは再臨を遅らせることにはなりません。なぜなら「終末の患難期に会わずに済む方法」という記事にあるように、

主の再臨の日付がすでに決まっていると仮定するなら、サタンの計画が遅れる事によって患難期が始まる前に再臨が起こることも可能なのです。

そうであるなら「私たちが患難を通るかどうか、あるいはそれが短くされるかどうかは私たちが目を開いて世の中で起こっている出来事に関心を持ち、それに対してとりなすことにかかっている。」のです。

つまり、患難期が来ることに対して自分は何もできないと考えているクリスチャンが多いですがそうではないのです。

いずれにしても、私たちは目を覚ましていましょう。

「ひとに惑わされないように気をつけなさい。(マタイ24:4)」


それぞれ、召しと賜物がありますのですべての人が終末に起こる世界の出来事を見張る働きにかかわる必要はありませんが、基礎的な知識として世界の本当の状態に対して知っておく必要があります。

ある人は、主に心を向け、主を賛美していれば良いと言います。もちろんそれはもっとも重要なことです。けれども、それは1914年に起こったアルメニア人の大虐殺において殺されたクリスチャンもそうしていました。

彼らには十分な判断材料が与えられていたにもかかわらず現状に目を向けようとせず、霊的な事柄だけに目を留めて、主が守ってくださると楽観していたのです。

この時の出来事は「地上最大の成功者・あるクリスチャン実業家の証し」の中に詳しく書かれています

主を見上げるだけで、現実に起こっている出来事を見ようとしなかったときに患難が襲ったとするならば、今日私達も主を見上げていくとともに現実に進行している出来事も見ていかねばならないのです。

(マタイ10:16) ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。