どうしてキリスト教会にはたくさんの教派があるか。
今日キリスト教はたくさんの宗派に分かれています。それを見て嘆かわしいと感じている人がいます。
でも私の視点はそれとは少し違います。それは不完全な人間がこの地上で神の御国を広げていくために神が容認されていることだと思います。
現在、時代とともに教会が変化しているように見えますが、実際には15世紀を頂点に堕落してしまった教会が、(良い言い方をするなら)初代教会に示された真の聖書が啓示する姿にどんどん回復していっているのです。
もちろん、この世的な文化の中で世俗化してしまっている部分もあり、良い麦と悪い麦が同時に生えている状態であることは否めませんが。
たとえば賛美礼拝ひとつをとっても、ドラムやギターを使って賛美することは伝統にはあいませんが、詩篇を見るならそれこそ聖書的な賛美なのです。
神の働きのキーワードは「回復」です。聖書全体を見てもひとつの大きなテーマはアダムの堕落によって失われた神の楽園を回復させることが大きなテーマです。
教会は誕生してから数百年たった後どんどん堕落してきました。ルターの宗教改革を境に失われた聖書の真理が回復しつつあります。でもすべてが一度に回復したわけではありません。「時代とともに」そして「一部から全体へ」広がっていったのです。
神の真理の回復は、ちょうど戦いのための武器を一つ一つ与えていくようなものです。
また、もうひとつ気をつけねばならないことは神が真理を回復するときに、神はそれが広がることを願っているがゆえ、それゆえ多少の行き過ぎやバランスを欠いたことであっても、その新しい武器を受けた教会は祝福を受け働きが成長するのです。
祝福を受けているからと言って、そのすべてが正しいわけではありません。勢いによってやりすぎやバランスを欠くことも多く起こっています。世間では批判もありますが私は「リニュアル・ムーブメント」を評価しています。しかし、行き過ぎやバランスを欠いた部分もあったことは確かです。
そういった負の部分を見分けていかなければ、盛り上がっても後にあまり多くの実を残すことができずに、あんな流行もあったね」で終わってしまってはせっかくあたえっれた武器が有効に活用されないのです。
聖霊のバプテスマをかっては強調していた教派の中には、以前ほど異言を語ることのメリットを感じないがためにその教理を捨ててしまうところもあるのです。しかし大切なことは聖霊のバプテスマを捨てることではなく、新しい神のムーブメントを受け入れ、バランスよく「古いものでも新しいものでも取り出していく」事なのです。
「聖霊のバプテスマ」という聖霊自身に関してもそれに固執したり、捨て去ったりしてはならないのであるなら、その他の今日私達が学んだり、受け取っている良いムーブメントに対してもそうなのです。