カトリック教会について

これは、私の教会で教えている基礎の学びのテキストにさらに加筆したものです。

その教えでは「どうして教会にたくさん種類があるのか&異端について」を学んでから「カトリック教会」について学びます。ですからこの教えを読まれる前に「どうして教会にたくさん種類があるのか」を読まれることをお勧めします。


カトリックが良いか悪いかについて論議するときに一つ大きな事を見逃しがちです。カトリックとはローマ教皇を中心として一致した巨大組織だと思われますが、実際には内部でも大きな開きがあります。すなわち、健全な教理を持ったキリストを愛する教会から、教会の中で公然と悪霊を拝んでいる教会もあります。ですから、カトリック教会の良し悪しを一言で定義できません。

ただし、カトリックの教理は異端であることはたしかです。それは「マリアが神の母として罪を持たずして生まれ天に帰った」「マリアはキリストと人をつなぐ仲介者である」といった誤った教理を持っているからです。マリアに神性を認める事は天の女王(女神)礼拝=偶像崇拝につながる単なる「間違った教え」という言葉では済まない深刻な問題です。また、他にも幾つものあきらかに間違った教理を持っています。


ですからカトリックとは何かを簡単に言うなら「その教理は異端であるが、おのおのの教会や信者の信仰が悪いとは限らない。」といえます。

ちなみにラテンアメリカのカトリックは世界でも最悪の信仰で、最近までイエスを救い主と信じた人はカトリック教会から追放されていたほどです。メキシコで最高に拝まれている守護聖母のグアダルーペ・マリアはその起源が異教的であり完全な女神礼拝であります。にもかかわらずバチカンはそれを否定せず、むしろ奨励しています。


ちなみに、メキシコではクリスチャンというのは聖書的信仰を持ったイエスを信じる人のことであり、カトリックのことをクリスチャンとは呼びません。つまりメキシコのカトリック信者にとって「クリスチャン」とは異端的信仰を持った人のことをさします。(これだけ見てもいかに歪んだ信仰かがわかるでしょう。)

このことを聞いて驚かれる人がいるかもしれませんが、教会のグループ分けについての概念は日本とその他の国では一様ではないことを知らなければいけません。ですから日本では「プロテスタント」という言葉は聖書的信仰を持った教会をさす言葉であるとされていますがすべての国で同じではありません。

その国の事情がわからなければ「プロテスタントのクリスチャンです。」というより「新生を体験したクリスチャン」と呼んだほうが無難でしょう。


今日におけるカトリックの別の問題は、昔の不寛容な強硬な考えから一転して、最近では他の思想、宗教に対する寛容政策をとっておりニューエイジ的な「神は唯一であるが、それに至る道はたくさんある」的な考え方に侵されつつあります。また、かっての頑固さを正すために天動説を否定し、地動説を唱えたガリレオの正しさを認めたことは良い事ですが、逆に1996年に進化論まで受け入れてしまうといった極端に走っています。でもそういった過ちはプロテスタントをはじめ他の宗派の中にも見られるものです。

中には正しい教理の教会もあるでしょうが、バチカンの間違った見解に対して抗議を示していないのであるなら信用できないという考え方は理にかなっていると思います。ですから、日本のプロテスタントの教会では「批判しないまでも距離を置いて互いに関わらないようにしている」というところで落ち着いているようです。


では、カトリックに対して私達はどのような態度で接するべきでしょうか?基本的に他の宗教やキリスト教の教派に対する態度と変わりません。すなわち(1)イエスを父なる神にいたる唯一の道、また救い主と信じ(2)聖書を神の言葉であり、真実であると信じるなら同じクリスチャンとみなすべきです。

カトリックにはマザーテレサのような尊敬すべき人たちも大勢いるのですから、純粋さを求めるあまり、大切なものを捨ててしまわぬように気をつけたいものです。良い事、正しい点についてはへりくだって互いに学びあう姿勢が大切です。「正しいこと、聖書的であるかどうか」という視点だけで動くなら良いものも捨ててしまうことでしょう。

16世紀のキリシタンはカトリックによって宣教されたので純粋な教理ではありません。イエスについてはほとんど語られず、ゼウス(父なる神)とマリアに対する信仰が中心です。

したがって純粋さのみを追求するならその歴史を切り捨てることになってしまいます。

先ほどキリストに向かう「方向性」「向かおうとする力」について説明しました。そういった点においては今日の誰よりもキリシタンは優れた神を求める方向性を持っていました。彼らが純粋な教理を教えられなかっただけで、もし聞かされていたら、喜んでそれを信じたことでしょう。

もっともキリシタンについて語る場合、キリシタン大名の決して少なくない人たちが貿易目当てであったり火薬や武器ほしさであったり、自分の利益の為に改宗した人も少なくはありません。また、当時のカトリックの政策は植民地主義とも結びついていました。特にイ工ズス会(JESUIT)は英語では「陰険な、ずるがしこい」という形容詞として使われているほど狡猾な集団であったことは知っておくべきでしょう。


カトリックの良し悪しについて語る場合教理の良し悪しだけでは図れないもっと大きな問題があります。それは単なる宗教の霊、強欲の霊といった一般的な霊のみならず終末の時代に重要となるさらに大きな霊の支配に近世以降あるからです。

つまり進化論を受け入れているというようなおことだけであるならそれは、「あまい教理」という問題ですが、それは表面化した問題に過ぎず霊的にはもっと深い問題なのです。ただ、この問題を証明して説得できるほどの資料を持ち合わせていないし、私も90%以上確実なことでなければ取り扱わないことにしているのでこの辺にしておきます。