どうしてたくさんの種類の教会があるのか

これは、私の教会で教えている基礎の学びのテキストにさらに加筆したものです。

世界には多くの種類の教会が存在します。ある人はそれを神の御業の多様さの表れであると考え、悲観的な人は教会が分裂して一致が無いと言います。私達はどのようにそれを理解するべきでしょうか。

教会の種類がたくさんあるからといっても仏教の宗派がたくさんあることと根本的な違いがあります。健全なキリスト教会は同じ聖書の全66巻を神の言葉として信じています。またイエスキリストを救い主として信じています。そういう意味においては、大きく分けても「密教」「小乗仏教」「大乗仏教」「日本の檀家仏教」などがあり教理や救いの概念がまったく異なるものとは違います。

そういった意味において教会は一つであり同じ神を信じ、同じ教理を持っています。私は「イエスキリストの神聖を信じる」「聖書が神の言葉であることを信じる」という最低二つの条件を満たしているならキリスト教であると思っています。

漁師の村にたとえれば、各家から働き人が出てきて一つの船に乗って働くようなものです。働き人が別々の家に住んでいても分裂ではなく、魚を取るという一つの目的にしたがって活動しています。


もちろん異なった教えを持つ「異端」と呼ばれる教会も存在します。代表的なのはモルモン教とエホバの証人です。彼らは先ほど上げた最低2つしかない条件にすら合致していません。

モルモン教は聖書を信じず「モルモン経」という独自の書物だとして信じているので条件にあっていません。エホバの証人は間違った訳の独自の聖書を用いており、また、キリストの神性を認めていないので間違った教えなのです。彼らはキリスト教ではありませんし、そこでは救われません。

異端と呼ばれるほど明らかに聖書に反していなくても、プロテスタントといいながら、イエスが処女マリアから生まれた事を認めなかったり、創世記1章―3章の記述を文字通り認めていない教会もあります。

また、聖霊の賜物は現在ではなくなってしまったとか、異言は悪魔からのもので語ってはいけないというような、間違った教えは、いわゆる健全なキリスト教会と言われるところででもなされているの見かけます。また、細かい解釈、意見の違いを取り上げたらきりがありません。


そういった中で私達はどのようにして、良いものと悪いものを見分け、また強調点や解釈が異なる人たちと一致して進んでいくことができるのでしょうか。

教会を理解するのに必要なのは教理や歴史的背景によって分類するのではなく、向かっている方向性によって分類するべきです。もし教理や背景によって分類するなら、何百という種類の教会に分類されるでしょうが、方向によって分類するなら、2種類しかありませんすなわちキリストに向かうものと、そうでないものです。

たとえば(教会A)は正しい教理を持っており、聖霊の賜物を用いた礼拝をしていながら高慢になってしまい方向がキリストに向いてい無かったとします。

(教会B)はそこそこ良い教えの教会ですが、キリストに対する情熱が醒めてしまっています。

(教会C)は「奇跡はもう現在では起こらない」という間違った教えをしている教会ですが、心からキリストを熱心に愛しており、力強くキリストに向かってます。

そういった場合、神は教会A、Bよりも教会Cを喜んでおられると思います。(教会B)は無難なのでましのようですが、黙示録3章16節には「あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」と書いているように、生ぬるい信仰は神は喜んでいません。

(教会C)は神に喜ばれているからと言ってはそのままで良いわけではなく、教理や教えの点においても正しくなっていくひつようがあります。


現在、時代とともに教会が変化しているように見えますが、実際には15世紀を頂点に堕落してしまった教会が、初代教会に示された真の教会の姿にどんどん回復していっているのです。(もちろん暗黒の中世においても正しい信仰を継承しているグループがあったと私は思います。)

神が真理を回復させるときにすべての教会に一度に真理を示すのではなく、一部に与え、そこから広がっていくようにされました。その時に差異が生まれ、それまでの伝統が覆され他の教会との違いを形成するのです。

(この経緯については以前「神の真理の回復は、ちょうど戦いのための武器を一つ一つ与えていくようなもの 」で取り上げました。

すなわち、違いが生じること事態は神の業なのです。問題があるとしたら「正しく回復されたもの(違いが生じてしまったもの)」を周りの別の教会が受け入れなかったり、回復された真理を持っている教会が高慢になってしまうことなのです。


ですから大切なのは、互いにへりくだって聖書に照らし合わせて次々に回復されていく真理を学んでいく姿勢です。よく見られる問題は真理を受け取った教会が高慢になる事によって、周りの教会が拒否反応を示してしまうことです。伝統を守る教会は良いものを守りたいという良い動機で行っているのであるなら、それに対して「自分たちは真理を知っている、あなたたちは遅れている」という態度で裁くべきではありません。