とりなしの教え(2)重荷を負う、関心を持つ 2009/10/01

とりなしとは(1)の続き

とりなしの重要な要素は重荷を持つ関心を持つです。

バビロン捕囚から70年以上がたち、エルサレムにおいて宮は再建されたもの、いまだに困難な中にある民の報告をネヘミヤが聞いたときに何が起こったでしょうか?(ネヘミヤ1章4節〜11節

(ネヘミヤ1:4) 私はこのことばを聞いたとき、すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食して天の神の前に祈った。

それは、それまで、なんとなく彼も聞かされていたことでしたが、特別な状況の中で特別なときにそれを聞いたときに彼の心は突き刺されたのです。これ以後、彼はエルサレムに対して特別な重荷をもちました。彼はそこに一生かけて取り組むべき働きを見出したのです。


(詩篇122:6) エルサレムの平和のために祈れ。「おまえを愛する人々が栄えるように。

この「祈れ」という言葉はヘブライ語で「ショアルー」であり、その意味は「関心を持つ、関わっていく」です。

「とりなしといったって私は別に祈っていない、熱心ではない」と考える人がいるかもしれません。しかし、とりなしの祈りの要素の一つが「関心を持つ、関わっていく」であるならあなたはもうすでにとりなしの働きを始めているのです。


あなたは、自分のまわりにいる壊れた家庭に対してあなたは心を向けているのですか。

この荒廃した日本の政治の現状を憂いでいるのですか?

そうであるなら、単に世の現状を嘆いたり、同情するだけではなくその思いの中に神をお招きしましょう。多くの場合、多くの場合かけているのがこの作業です。

もし悲しんでるだけであるならそこからは命は生まれません。

(第二コリント7:10) 神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。

しかし、そこに主をお招きするなら、その方が私達を正しい祈りの方向へ導いてくださるのです。

(出エジプト23:20) 見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所にあなたを導いて行かせよう。

主は私かに私達の先頭に立ち、私達を招いてくださっています。


だからといって理想的な形で主に拠り頼むものしか神はとりなし手として認めないというわけではありません。

アブラハムとは対照的にロトは不信仰の人として聖書に描かれていると一般に思われていますが、聖書はなんと言っているでしょうか。

なんと彼は義人として聖書は記録しています。(第二ペテロ2章6−8節

彼のような程度ですら神は義人として認めておられるのでしたら、神の懐は私達が思うより大きいことがわかります。

そして「聖書は義人の祈りには力がある。」(ヤコブ5章16節)と聖書は書いています。

よく聞いてください。あなたの祈りには力があるのです。


イエス様が神の右におられていつも私達のためにとりなしをしていることを知っています。だからといってそれは四六時中彼が熱心に祈っているという意味ではありません。

彼は私達が悩み苦しみ滅んでいくことを見過ごすことができずに、御座を捨てて人となってくださいました。私達と同じようになられ、私達が通るような悲しみや苦しみ、いやそれ以上のものを体験されました。人と同じようになり重荷を持ってくださいました。それがとりなしなのです。

私が関わっているエベネゼル緊急基金がとりなしの団体なのはその祈りについてだけではありません。イスラエルと共に立ち人道的援助を与えていくその活動そのものがとりなしなのです。

エベネゼル緊急基金のリンク(パソコンのみ)