とりなしの祈りの本質 (09/09/16)

聖書を見る時に「仲介者」と「とりなし手」が、同じ意味として使われている事が分かります。ヘブライ語で「仲介者」は(メリーツ)その意味は「代弁者」=とりなし手という意味です。 

天と地をつなぐ存在が仲介者であるという観点から言えば、地上で最初のとりなし手はアダムでした。神はこの地上におけるすべての権威を神から譲り受けていました。

アダムに与えられていた自由の範囲というのは限りなく広いものであり、実際にアダムがしてはならないことは「2つの木からとってその実を食べること」だけであり、それ以外には何の規制もなかったのです。

参考記事:人に与えられた自由


とはいえ、アダムはその自由さゆえに失敗してしまいました。そして与えられた権威を失ってしまいました。その結果、一時的にこの地上の支配権がサタンに移ってしまったのです。

かって人に与えられた権威は絶大であり、それは地上の支配権をサタンに引き渡すことができるほどまででした。

ある人は、神のことをひどい方だと考えます。なぜなら、たった一度の過ちで禁断の実を食べただけなので、人をエデンの園から追放し生活を一変させてしまったからです。

しかし、それはアダムの立場を勘違いしているからです。アダムは単なる雇われの庭番のような存在ではありません。彼が結んだ契約がその通りになるほどの権威を持っていたのです。


それゆえ神は、その状態から回復させるために、イエスをこの地上に送られました。このイエスについて私たちは、罪の贖いの小羊としての視点についてはこれまでにも聞かされてきましたので、ここで「人」となることの重要な意義について見たいと思います。

1コリント15:45 にキリストのことを「最後のアダム」と表現しております。

キリストが「アダム」であると言われていますが、それは「人」を意味するヘブライ語が「アダム」であり、1コリント15章45節で強調していることは、キリストは仲介者となるには「人」にならなければならなかったのです。

と言われても、別だん目新しい教えには聞こえないことでしょう。私たちは「キリストは神であり人である。両方の性質を兼ね備えている。それゆえ神と人との仲介者となることができた。」と教えられていたからです。(もちろん、その教えは正しいのですが)そうであるなら、仲介者となりうるのは神であったキリストだけになってしまいます。


今日みなさんに知ってほしいことがあります。創世記1章26節〜28節の言葉に従うなら、「人」は「人」であるがゆえ創造の初めから生まれもって仲介者なのです。それは変わることのない神の計画なのです。

つまり仲介者(とりなし手)となるのに神としての性質を持つことが条件ではないのです。神であるキリストが仲介者となる為には「人」になる必要があったのです。

エステル記にあるように神は、定めた事柄を状況が変わったからといって途中で変更する事はありません。神が人を仲介者としてこの地上を治めさせると定めたなら、それはどのような状況になっても変わらないのです。ローマ11章29節に「召命と賜物は変わらない」と書いているように。


ですから、神が全能の神だという理由だけで、人がサタンに売り渡した地上の支配権を奪い返すことはできないのです。「人」という仲介者によって初めてそれができるのです。それゆえ神が人となられたのです。

ですから、私たちの祈りを神が聞いてくれるだろうか? 私がとりなし手(仲介者)となる資格があるのだろうか?などと悩む必要はありません。誰であっても人は生まれ持って仲介者なのです。

※ 「誰であっても」というのは神に用いられることも、サタンに用いられることもできるという意味での「仲介者」です。


話が長くなりましたが、今日でも人の祈りを通じて世界を動かそうという神の計画は変わっていません。

もちろん、好き勝手な祈りをしてもそれが聞かれるわけではありませんし、アダムは1つの戒め以外はなんでもしてよかったのですが、今日の私達はそうではありません。

それはどうしてでしょうか?

今日の私たちの働きは、キリストという「仲介者」の下請けだからです。

 

1テモテ2:5 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。

この言葉の意味を文字通り受け取るなら、キリストだけが仲介者であり、彼だけがとりなしの働きをするように見えます。

でも、安心してください。(ヨハネ20章21節)には「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」 と書いているからです。

「遣わす」という言葉は(マタイ28章18節〜19節)にも見られることです。

十字架の死からの蘇りの後、イエスは一切の権威を回復したことを宣言されました。そして、「行きなさい!!」と我々に命令を与えました。

ですから、私たちは、キリストが定めた枠の範囲内で「仲介者」「とりなし手」となることができるのです。

キリストが唯一の仲介者(とりなし手)(1テモテ2章5節)であることを認め、私達はキリストが定めた範囲内で、その役割の一部を譲渡されているだけであることを理解するなら、私たちは神の力をこの地上にもたらす仲介者となることができるのです。


注)

1)それゆえ、とりなし手としての最も重要かつ基本的な姿勢は何を祈るのか、どのように祈るのかを「神から聞く」ということです。

 

2)キリストの定められた枠の範囲内と言ってもそれは私たちが想像する以上に広いということを知るべきです。特に日本人の場合、間違いを犯さないように、これは御心かな?違うかな?と迷い恐れて何もしないでいる傾向があります。それゆえ「人に与えられた自由さについての教え」について知る必要があります。