今日ではまともな教会の中で異言を語ることを異端だと考えているところは少なくなっていますが、それでもその意味が十分理解されているわけではありません。それは異言には一般的な異言と賜物としての異言があることを知らないからです。
そのような理解によって全ての聖霊の賜物を発揮することに対して制限を与えてしまっています。
これは異言だけでなく、癒し、預言についても同様に見られる問題なので、私達が神の国の資産を十分に受け取るためにも理解を整理して見たいと思います。
特別なレベルとは、第一コリント12章に書かれたものです。
ここからわかることは目と耳が別物であるように、それぞれ与えられた別々の賜物を持った人たちが集まることによってキリストの体が構成されると書いています。すなわち、すべての人が同じ賜物を持っているわけではないのです。
だけどここで注意が必要です。このレベルの賜物を受けている人を特別視して、私には与えられていないと思ってしまうことです。神の御心は私達の想像以上に大きいので、本来与えられているはずの多くの人がそれを行使していないと思います。
また、もうひとつ忘れてはならないことは、私達は全ての賜物の所有者である聖霊を持っていることです。すなわち、たとえ特別なレベルの聖霊の賜物をもっていない人であっても必要な緊急なときには与えられるのです。
これらの御言葉は信じる人には何が起こるのかについて書かれています。ですから、イエスを信じる人は悪霊の追い出し、異言、奇跡、癒しを行うことができるのです。
こういった事柄を理解するなら、すべての人が異言を語り、癒しを行い、預言をすることができることがわかります。
ですから聖霊の賜物がすべての人のものであることを否定する人が、第一コリント12章30節の 「みながいやしの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。みなが解き明かしをするでしょうか。」という言葉を引用したからといってあわてることはありません。
その答えは「確かにすべての人に同じように聖霊の賜物は与えられてはいない。」です。そして「マルコ16章を引用して、でもすべての人に一般的なレベルの賜物が与えられていますよ。」という言葉を付け足してください。