「教会の二つの土台」

教会の土台はイエスキリストだけだと思っている人が多いようですが、そうではなくもうひとつの土台があるのです。こういうと何か間違った教えのように聞こえるかもしれません。正確言えば2つのレベルの土台があるのです。それは第一コリント3章10節〜11節の御言葉から伺うことができます。

(1コリント3:10 与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。3:11 というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。


この土台についての教えを要約するならこうです。

教会の土台であり信仰の土台はイエスキリストです。これについてはもう説明する必要はないと思います。しかし、そのキリストの土台の上に直接教会を建て上げるわけではありません。キリストの土台の上に使徒と預言者という土台を建て上げるのです。それは、エペソ2章20節の言葉とも一致しています。

(エペソ2:20) あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です

この2つの聖句から言える事は教会には大きく分けてキリストの土台と使徒的な土台が存在するということです。もちろんキリストの土台が重要であり使徒的な土台はキリストの土台の上に乗っているに過ぎません。


キリストの土台と使徒的土台との違いは何かといえば、キリストの土台はすべての教会に共通する普遍的な土台です。教会には三大命令が与えられているといわれています。ひとつは神を愛すること、二つ目は隣人を愛することです。これらはイエス自身がもっとも重要な教えであると語られました。

そして三つ目は大宣教命令と呼ばれる外に出て行って福音を伝え弟子化する働きです。

それらを実行するためにいくつかの事柄を加えるなら、祈ること、聖書を読み想い巡らすこと、ささげること賛美し交わりをすること。数え上げたらきりがありませんがとにかくクリスチャンとして教会としてするべき基本の事柄です。


使徒的土台というのはそれらに加えて、それらを実行するための各教会に与えられた召しや特徴のことです。何も難しいことをいおうとしているのではありません。私達がごく普通に認識している教会の個性や働きの強調点のことです。

どうして単純な事柄を「使徒的土台」という言葉を用いて説明しているのかといえばそれにはわけがあります。

ひとつは「使徒的」という言葉を何か難しいもののように考えてほしくないのです。もうひとつの理由は今まで漠然と捉えていた「教会の特徴」というものを使徒的という言葉を用いて再解釈していただきたいのです。


このことを理解していることは大切です。もし、全ての教会が直接イエスキリストの土台の上に立っているだけであるなら、教会のバリエーションはあまりないことでしょう。

しかし、教会は全てが同じである必要はないのです。

使徒的な土台を認識することによって「違いを設けること」はまた、リスクの分散でもあります。

全ての教会が右にならえであるなら、その方法が間違っているなら、全部がつぶれてしまいます。ある意味カトリック教会が間違った教えに走ってしまっていることはその弊害です。聖書的な教会(日本で言うところのプロテスタント)は分裂があるように見えても、ある意味それはリスクの分散なのです。

私達の教会もまた自分達の存在をキリストの体という公同の教会の中の一部として全体の益を考えて独自の方法をとっています


もちろんキリストの土台である第一、第二のいましめ、および大宣教命令は最も大切なものであり、その本質とそれに伴う付属的なことを行うならそれだけで世界を福音化することができるはずです。しかし20世紀の前半に「聖霊の時代」後半に「子の時代」21世紀に父の時代を迎えるに当たって、より戦略的な方向性を持つ必要があります。

これまで教会は歴史の背後に何があるのかを、サタンがどのような戦略を持っているのかを無視してとにかく「結果オーライ」で福音宣教を推し進めていたゆえに、すなわちそれらのことに対して祈ってこなかったゆえに、この世界は急速に暗闇の時代に突入しつつあるのです。

その戦略的な方向を与えるのが使徒的な土台なのです。ですからキリストの土台のほうが重要だからといって使徒的な土台を無視してよいわけではないのです。

このSIHOP.NETは「終末において教会の進むべき方向に示唆を与える」のをひとつの目標としています。ですからその役割をまっとうするためにもこの使徒的な土台の教えは重要なのです。