三つでひとつの神で故に完全なる親しい交わりとなる

どうして神は父、子、聖霊の三つでご自身を現されたのか?

この疑問いついては先に「三位一体は完全なる神の形」という記事の中で書きましたが、今回は神との親しい交わりという視点でさらに書いてみたいと思います。


「神と人との親しい関係」これは一言で言い表せれるものではありません。その為に神は3つの形でご自身を表されました。

■ まず第一に、それは「父親」というかたちです。

親が子を愛する思いより強い愛は無いといわれています。神との和解のよって私達に与えられる第一のアイデンティティーは「神の子としての身分」なのです。(ヨハネ1:12)

この関係は、完全なる充足を与えます。なぜなら、われわれはもはや孤児ではないからです。多くの人は自分が育った家庭環境ゆえの傷を抱えています。しかし、神の子としての身分が与えられることはあらゆる分野において癒しをもたらします。

■ キリストの花嫁としての関係

感覚的な親密さでいうなら男女の恋愛関係に勝るものは無いでしょう。キリストが花婿であり、教会が花嫁であるということは、親子関係では言い表せれない親密さの表現でもあります。

どんなに仲の良い親子であっても、親はすべてのことを子には話しません。しかし、キリストの花嫁であり友である関係はまったく秘密の無い親密な関係なのです。(ヨハネ15:15 )

その親密さは、キリストは「父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」とあるように、秘密を守ることができないほどの親密さなので、「再臨の時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。」(マタイ24:36)と言わせるほどのものなのです。

■ 聖霊により愛する対象が自分自身であるほどの親密さ

ここまで書いた事は、究極的な愛でありますが、人間の経験からある程度は理解できることです。しかし、われわれの内に内住する聖霊によって与えられる身分がもたらす親密な関係は、人間の理解をはるかに超えたものなのです。

ヤコブ4:5)の「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。」という言葉はどういう意味でしょうか?

神は単に自分の御霊を慕っているのであって、われわれは部外者なのでしょうか。そうではありません。この言葉を理解するためには、神と人との親しい関係は夫婦の関係にたとえられていることを知らねばなりません。

夫婦は互いのうちに互いの霊を宿すものである」という教えの中にあるように、神の霊が私達の内に宿っているなら、もはや神がわれわれを見るときに、それは神がわれわれを自分自身であるかのように慕っているという意味です。

ヤコブ4:5の御言葉には、「ねたむ」という表現が使われています。どうしてこのような表現をされたのかといいますと、それは私達の注意を引くためであり、また、男女の恋愛関係を見るときに神と人との関係を連想してほしいからなのです。


「自分を慕う」と言ったら何か「自己愛」のように思われるかも知れませんが、それは人間の場合です。神ご自身が自分自身を愛するとしたら、それは健全な意味で、そして完全な意味で愛しているのです。