クリスチャンが救いを失うことがあるか? (14/06/20) s

まず、第一に一言で答えるなら「救いを失うことはありません。」それが私たちが信じている信仰の大前提です。

(第1ペテロ1:18 ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、 1:19 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

救いとはキリストの血によって買い取られることです。代価を払ったのですから、もうキリストのものなのです。

信仰の弱った人が、自分が救いを失ってしまうのではないか、失ってしまったのではないかという不安を感じることがあります。そのような人の中で、本当に救いを失ってしまった人はいないことでしょう。

ですから、私を含めて、牧師は講壇から「一度救われた人は救いを失うことはない」と教えるのです。この問題について、いくらでも複雑に語ることができますが、一言で「どっちなんだ」と聞かれたら、「救いを失うことがない。」というのが正しい答えです。


しかし、それと同時に聖書は、私たちが恐れおののいて救いを達成するようにと語っています。(ピリピ2:12

第1コリント6:9−10

救いとは、あぐらをかいて、高見の見物で天国に入ることではないからです。

(ヘブル10:26−27) (黙示録14:9−11

このような言葉があるが故、牧師は「救いを失う可能性がある」ことについても語るのです。もし、それを口にしないとするなら、その人は聖書の全部を信じていないことになります。


では実際に「私は救われているのでしょうか?」あるいは「救いを失ってしまう可能性があるのか不安です。」という人がいます。
もし、そういう悩みがあるのでしたら、その人は間違いなく救われていることでしょう。もし、救われない人がいたとしたら、その人は「自分が救いを失うかどうか」すら考えもしない人なのではないかと思います。


この、「信じた後も救いを失うことがあるかどうか?」という論議について、質問する人と、それに答える人(多くの場合、教師、牧師)の間にずれがあることを感じます。

質問する人は、「自分の不安の表現として」その質問をします。 そして答える人は聖書から、その原則について語ります。そこにずれが生じてしまいます。厳密な意味で聖書から語るなら、「救いを失うこともある」と答えざるを得ないのですが、それは真理について語っているだけで、実情についての答えではないのです。
圧倒的に多数の御言葉が「救いは永遠である」と語っている中で「救いを失うこと」についてだけ強調するとしたらバランスを欠いた教えであるといえるでしょう。

ですから、私が勧めることは、救いを失うかどうかなんて気にしないで、ただ、目の前に置かれた自分のレースを走り自分の走るべき行程を走っていきましょう。

ピリピ3:13−14)3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、 3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。


P.S. おまけ

この「救いを失うかどうか」ということに関して話を聞くときに、私がすぐに思い浮かぶのは「罪を犯していながら救われるかどうか」という点が論点だと思っていたのですが、ある人にとっては「行いがなくても」つまり「何も奉仕をしていない(役立っていない)のに」救われるかどうか?ということを気にかける人もおられるようです。

その答えは明白です。(ローマ4:2-5)にあるように私たちの救いは行いによって決まるのではありません。

けれどもある人たちがそんな勘違いをするのは(ヤコブ2:14−24)の御言葉のためでしょう。

「信仰によって救われる → 信仰は行いによってあらわされる」 ということで、救われるには行いが必要だと思ってしまうのでしょう。でも、ここで問題になっているのは「義と認められるか」についてです。

そして、確かに信仰表明の為に行動は必要です。少なくとも私たちは心で信じただけでなく「口で告白」(ローマ10:9-10)という行動を通じて救われたのです。

しかし、そういった信仰を表明するための行動と教会で何らかの奉仕をするかどうかはまったく別の話です。