杉原千畝とは(ユダヤ人の救出は日本の官民一体となった一大事業だった)s

杉原千畝は1900年生まれの日本の外交官です。
1940年にリトアニアのカウナスで領事館に就任中、ナチスの迫害を逃れるためにリトアニアにいたユダヤ人難民の為にビザを発行し、およそ6000人の命を救ったといわれ1985年に「諸国民の中の正義の人賞」(ヤド・バシェム賞)を受賞しています。

当時のヨーロッパはナチスによる圧迫が強まっており、それと同時にアメリカを含めて他のヨーロッパ諸国はユダヤ人難民に対して扉を閉ざしておりました。
1939年にドイツがポーランドに侵攻するとポーランド在住のユダヤ人にとって逃げ道はリトアニア以外ありませんでした。そのリトアニアもソ連の脅威があり、彼らには有効な避難経路はなく、ただ、日本を通過して他の国に逃げることだけでした。日本に行くためのビザは「通過ビザ」に過ぎず、明確な行き先がなければビザが取得できないのでユダヤ人難民の多くは別の目的地(リトアニアにいたユダヤ人はカリブ海のオランダ植民地キュラソー島)のビザを取得したようです。(ただし、これは建前上のもので、そこまで行った人はいないと思われます。


杉原は当時の日本政府の方針であった「人種差別をしない」(注1)という方針と、人道的見地から、数週間に渡り寸暇を惜しいんでビザを発行しユダヤ人が大多数を占める難民を助けました。その発行したビザの数は少なくとも2000枚以上であり、また、ひと家族に一枚あればよいので、合計6000人を救ったといわれています。

(注1)日本は1919年に「人種的差別撤廃提案」を国際連盟に提案しました。投票の結果11対5で賛成多数でしたが、しかし議長のウッドロウ・ウィルソンは「全会一致でないため提案は不成立である」と宣言ました。(それまではほとんど全てを多数決で決めていたにもかかわらず)


さて、ここで、杉原ビザにまつわるいくつかの誤解を解いておきたいと思います。

(1)日本政府に逆らってビザを発給したので処罰としてリトアニアを離れさせられたという誤解。
これは、本当ではありません。彼はリトアニアのカウナスを離れましたが、もともとその領事館はソ連の圧力で閉鎖されることになっていました。
カウナスを離れた後、彼はベルリン経由でチェコスロヴァキアのプラハ総領事館に総領事代理として勤務しました。
それどころか、彼は1944年に三等書記官として在ルーマニア公使館に勤務していたときに勲五等瑞宝章を授与されています。したがって、彼が戦後外務省を首になったのはこのビザ発給の件が原因ではありません。
終戦後外務省の働きは大幅に縮小され、外交官の三分の一が退職させられました。ノンキャリア組(東大卒ではない)の彼が退職さえられたことは不思議ではありません。


(2)杉原は正義の人であるが日本政府はユダヤ人に冷たかったという誤解。
これも、大きな誤解です。確かに日本政府は杉原が難民に対してビザの発給の許可を求めたときに難色をしめしましたが、それは常識に基づいての回答です。実際には杉原がビザを発行するのを容認していたように思います。実際に日本がした対応はユダヤ人に対する愛と哀れみに満ちていることは歴史が証明しています。
当たり前の話ですがビザというものはその国に入国をするための最低条件であって、入国を保障するものではありません。
杉原ビザを持ち、ソ連極東部のウラジオストックにたどり着いた避難民がその後も脱出を続けれたのは、ウラジオストック領事館の根井三郎の便宜があったからです。
根井三郎は、有効性が疑われている杉原ビザに対しての信用を与え、さらに紛失者にも再発行しました。 また、本来漁業関係者にしか出せない日本行きの乗船許可証を発給し、難民の救済にあたりました。

ウラジオストックを発った船は日本の鶴賀港につきましたが、一定のお金を持っていない人は上陸許可が下りないはずでしたが、そこでも、別の役人によって便宜がはかられました。 

また、ユダヤ人が日本に滞在できる期間は10日間だけだったのですが、外務大臣の松岡洋右の便宜で30日に延長されました。 この事実は大きな意味を持っております。なぜならこのユダヤ人の救済は、日本政府のお墨付きであったことを意味するからです。


杉原はビザ発行のために自分の自身がリスクを負ったのは事実ですが、その発想は彼の独断ではなくユダヤ人を助けるというのが、当時の日本全体のふんいきだったからです。杉原ビザの数年前に、ソ連領オトポールで立ち往生している数百人のユダヤ人難民を樋口季一郎が保護したのですが松岡洋右はその活動を支持しております。そのときにナチスドイツは日本に抗議をしましたが、日本政府は公式にその訴えを退けて「日本は人種差別をしない」という意向を表明しました。

つまり杉原千畝の行動にはすでに樋口季一郎という先人の功績があったからであり、日本政府全体の方針ゆえでもあるのです。

敦賀市にある博物館に展示されているように日本に入国したユダヤ人は敦賀港において、神戸において、その他さまざまな場所で官、民によるさまざまな支援、援助を受けて、さまざまな方法で別の場所に逃げ延びることができたのです。

ナチスと敵対している国であるなら、ナチスの政策に反する行動をするのはたやすいかもしれません。しかしナチスと同盟関係にありながらナチスの政策に同意せず、むしろ反対の行動をとるというのは、他のどの国よりもホロコーストに加担しなかったという意味で高い評価を与えられるべきなのです。


 

この記事は 「謝罪によって間違った歴史を記録してしまう危険性(日本人とユダヤ人のホロコースト) 」という記事を補足する為にかかれたものです。