謝罪によって間違った歴史を記録してしまう危険性(日本人とユダヤ人のホロコースト)s

ある日本人が日本はナチスと同盟を結んでいたので「ユダヤ人のホロコースト」に対して、謝罪しました。このことは道理にかなっているように見えるかもしれませんが、歴史的事実としては日本はナチスと同盟を結んでいたにも関わらずホロコーストには一切加担せず、むしろ助けました。

ナチスと敵対している国であるなら、ナチスの政策に反する行動をするのはたやすいかもしれません。しかしナチスと同盟関係にありながらナチスの政策に同意せず、むしろ反対の行動をとるというのは、他のどの国よりもホロコーストに加担しなかったという意味で高い評価を与えられるべきではないでしょうか。

だからと言って、クリスチャンとして(ある種の)ユダヤ人の迫害に対して謝罪することを否定しているわけではありませんし、人類が負うべき責任に対して日本人だけが逃れようとしているわけではありません。

ただ、謝罪して終わってしまうだけなら、「日本がある意味、当時、世界で最もユダヤ人を救った」という歴史的事実をうやむやにしてしまうどころか、間違った歴史を記録することになってしまいます。

セントルイス号の悲劇)に見られるように当時アメリカですらユダヤ人に対して冷淡に扱っていた中で、当時の有力国の中である意味、日本だけが偏見のない公平で温かみのある対応をしていたのです。


記事を読み進める前に「歴史認識に対する私の基本的な考え方」を読まれることをお勧めします。


杉原千畝だけを英雄に祭り上げて、日本は悪であるという図式を作り上げたい人たちがいるようですが、実際にはそうではありません。杉原が発行したビザを持っているだけで日本を通過して、別の場所に逃げれるわけではないからです。

杉原ビザを持ち、ソ連極東部のウラジオストックにたどり着いた避難民がその後も脱出を続けれたのは、ウラジオストック領事館の根井三郎の便宜があったからです。杉原ビザは避難民に対して大盤振る舞いに与えたもので、公式なものとは言いがたいものも多く含まれていました。

根井三郎は、有効性が疑われている杉原ビザに対しての信用を与え、さらに紛失者にも再発行しました。 また、本来漁業関係者にしか出せない日本行きの乗船許可証を発給し、難民の救済にあたりました。

船は鶴賀港につきましたが、一定のお金を持っていない人は上陸許可が下りないはずでしたが、そこでも、別の役人によって便宜がはかられました。 

また、ユダヤ人が日本に滞在できる期間は10日間だけだったのですが、外務大臣の松岡洋右の便宜で30日に延長されました。 この事実は大きな意味を持っております。なぜならこのユダヤ人の救済は、日本政府のお墨付きであったことを意味するからです。

一般的には日本政府は杉原千畝にビザを発行してはならないと指示したが杉原はそれに逆らって発行したとして、「杉原=善」「日本政府=悪」の図式が作られていますが、日本政府がビザを渋ったといわれているのは、ビザ発行の要件を満たしていない人たち(偽造や期限切れのパスポートなど)に対して国際法に照らし合わせて判断したものですが、実際には杉原がビザを発行するのを容認していたように思います。その証拠に外務大臣の松岡洋右はユダヤ人避難民に対して寛大な待遇を与えているからです。

杉原は「不当にビザを発給した」という理由で処罰されたと考える人がいますが、そうではありません。1947年まで外務省に在職していることがその証拠です。彼がリストラされたのも占領軍による統治中に外務省が大幅に縮小されたことによるのです。

杉原の行動は彼の独断ではなくユダヤ人を助けるというのが、当時の日本全体のふんいきだったからです。杉原ビザの数年前に、ソ連領オトポールで立ち往生している数百人のユダヤ人難民を樋口季一郎が保護したのですが松岡洋右はその活動を支持しております。そのときにナチスドイツは日本に抗議をしましたが、日本政府は公式にその訴えを退けて「日本は人種差別をしない」という意向を表明しました。

つまり杉原千畝の行動にはすでに樋口季一郎という先人の功績があったからであり、日本政府全体の方針ゆえでもあるのです。

敦賀市にある博物館に展示されているように日本に入国したユダヤ人は敦賀港において、神戸において、その他さまざまな場所で官、民によるさまざまな支援、援助を受けて、さまざまな方法で別の場所に逃げ延びることができたのです。


日本にはこのようなユダヤ人を助けたすばらしい歴史があります。しかし、それについて教えられることなく、ただ、ナチスと同盟を組んでいたというだけで、ホロコーストの責任を謝罪するとしたら、それは間違った歴史観を植え付けることになってしまうのです。