「ダビデの仮庵の回復」とは何か? (15/02/19)

その日、わたしはダビデの倒れている仮庵を起こし、その破れを繕い、その廃墟を復興し、昔の日のようにこれを建て直す。(アモス9章11節)

ダビデの幕屋の回復運動が日本中に広がっております。数年前までほとんどひとつも存在していなかった247の祈りの家(24時間・毎日)が2014年現在、全国に少なくとも8ヶ所建てあげられ、絶え間ない祈りがささげられております。

「ダビデの幕屋」は「ダビデの賛美の天幕」という形では既に数十年前に回復しておりました。それはダビデがはじめた礼拝形式について、すなわち賛美を中心とした礼拝形式のことです。
それは聖書的でありすばらしいものですが、しかし、どんなに良い教えであってもイスラエルを無視して考えてしまうならモーセの幕屋の否定やその他のユダヤ的なものを否定する動きにつながる危険性がありました。

もちろん、幕屋も神殿もそれらはイエスキリストや教会の雛形なので、今日文字通りのそのような礼拝場所を必要としているわけではありません。しかし別の極端としてイスラエルを無視するなら置換神学に傾いてしまったり、福音理解をユダヤルーツから引き離してしまう危険性が生じてしまいます。そうすると終末の理解がぼやかされイスラエルに対する神の計画を無視することになってしまいます。

使徒の働き15章に記された「ダビデの幕屋」の回復の引用元であるアモス書9章11節を見るなら「起こされるべき倒れたダビデの仮庵」とは文脈からして直接的にはイスラエルの回復のことであることがわかります。この倒れた小屋(スカット)という言葉の響きはユダヤ人たちにとってはイザヤ書1章8節に書かれた主の裁きによって風前の灯となった「きゅうり畑の番小屋」ほどのもろい存在であるイスラエルであり、事実イスラエルは長い年月の間、倒れたままだったのです。
今日語られているダビデの幕屋の回復運動は単に24時間の絶え間ない賛美と祈りについての事柄だけではありません。「イスラエルに関わる運動の第三の波」と呼ばれているようにイスラエルの回復を強く意識したものなのです。

そしてまたユダヤ人から「霊的なものを受け取ったので物質的にイスラエルを支えよう。」といった一方通行のものではなく、この運動を通じて異邦人もまた祭司、レビ人となりユダヤ人とひとつとなり「新しい一人の人」(エペソ書2章15節)としての真の関係が回復されていくのです。
もちろん、キリストを信じるものは誰でも王であり祭司なのですから、今さら祭司やレビ人になると言われてもあまり新鮮味が無いかもしれません。

とはいえ、霊的な祭司という意味では外国人とユダヤ人信者との間に現状として格差があるのは否めません。

今日のメシアニック・ジュー牧師たちの活動は非常に有用です。地名や人名をヘブライ語で理解できるだけでも外国人とは比較にならないほど多くの啓示やメッセージを彼らは受け取ることができるゆえ彼らの教えは深く、また今日のように福音のユダヤ性が理解されるにつれてその価値はますます高まっています。

けれども、その反動としてユダヤ人ビリーバーから受け取るだけで、外国人からは霊的な意味では何も与えるものが無いと考えてしまうならそれは行き過ぎた考え方です。

ゼカリヤ書8章23節に描かれているような「外国人がユダヤ人にしがみつき、霊的祝福を求める状態」だけではなく、また、ローマ15章27節に書かれているような「外国人はユダヤ人に物質的に与える立場あって霊的にはユダヤ人から受け取る側」というように立場を限定してしまってはなりません。


外国人も彼らに霊的に与えていく祭司とならなければならないのです。
聖書を見るなら外国人が主要な役割を演じたのがわかります。それはルツがキリストの家系に連なったような出来事だけではなく、幕屋に仕える働きにおいてもそうなのです。

もっとも代表的なのはオベデ・エドムの働きです。ダビデは契約の箱を運び入れようとしていましたが(第2サムエル記6:1〜23節)、ウザが打たれて死んだことによってその計画が滞ってしまいました。その恐ろしい契約の箱を預かったのが異邦人オベデエドムでしたが、彼は契約の箱に対してどのように尊敬を示すのかを理解していたようで、その家は大いに祝福されたのです。(第2サムエル記6章12節)その知らせを聞いたダビデはねたみを起こし、契約の箱を再び運び入れることを決めたのです。

民数記10:29〜36)でモーセのしゅうとの子であるホバブにモーセは懇願しました。(民数記10:31)モーセは荒野のどこに宿営すればよいかわからず、彼らの助けが必要だったのです。

これは少し奇妙に感じるかもしれません。なぜならイスラエルの民は雲の柱、火の柱によって神に導かれていたからです。それはおそらく、おおまかな部分は主が導いたのでしょうが、その場その場の宿営においては熟練した外国人の助けを必要としていたのでしょう。

そのように、外国人の働きは物質的に備えを与えるだけではありません。また、ユダヤ人から学ぶだけでもありません。主要な礼拝、神の臨在に関わる中心的な事柄においても与えていくことができるのです。それは外国人もイスラエルに関わる第一の波、第二の波、第三の波などさまざまな活動を通じて「祭司、レビ人」とされていくことを意味します。

イエスが再臨される時はどのような時代でしょうか。それは使徒の働き3章21節に書かれているように「万物が回復する時」です。その回復とはこれまで語られてきたようなイスラエルの再建、ユダヤ人の帰還、ユダヤ人の救いなどですが、それに加えて外国人が聖書からその役割と立ち位置を理解することも含まれているのです。