「キリストの信仰による救い」(19/03/19)


聖書はヘブライ語やギリシャ語などによって書かれました。日本語で読むときに翻訳作業が必要です。翻訳をするときに、さまざまな翻訳が可能なので、翻訳者はそのうちのひとつを選ぶ必要があります。

ですから、聖書によって書かれていることばが違うこと自体は、間違いというよりも、どの訳を採用したかの違いです。もちろん「TRとRVの違い」という記事にあるような問題もありますが。


そういった中で、聖書の翻訳が違ってしまう理由のひとつは「聖書の翻訳に教理を入れてはならない」という記事にあるように「教理」が含まれる場合です。

たとえば、ルターが16世紀に宗教改革によってプロテスタントの流れを作りました。それによって偉大なる真理が回復しました。それは行いによらず「信仰によって救われる」というものです。

それ自体はよいものですが、そのよいものの為に、聖書の翻訳が正確にできないこともあるのです。

その良い例がローマ3章22節の「イエス・キリストを信じることによる」ということばです。

このことばはギリシャ語から直訳した場合「イエスキリストの信仰による」です。

すなわち、私達が救われたのはキリストをがんばって信じたからではなく、信仰の創始者であり完成者であるキリストが打ち立ててくださった信仰をただとりに行ったことによって救われたのです。

第1コリント12章9節によると「信仰」とは賜物であり、神様からのプレゼントなのです。

ですから、がんばって信じるのではなく、ただ自分を神に明け渡して、キリストが作られて信仰を取りにいきましょう。


(補足)

この箇所を「信仰」と訳すべきかどうかについて、結局、聖書協会共同訳では「真実」と訳されたようですが、翻訳段階において悩み論議があったようです。

日本聖書協会(2019年に聖書協会共同訳を発行した団体)の機関紙46号SOWER(2019年4月号)において信仰と訳すべきギリシャ語で「ピスティス」という単語をどう訳するかで、論議があった様子を掲載しています。

阿部氏は、「新約部会、訳語検討会では『真実』にするという意見が圧倒的多数だったが、彼自身は『信仰』でいくべきだと主張していた」ということについて語っております。

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