聖書の翻訳に教理を入れてはならない(19/03/19)

聖書は細心の注意を払って原語から忠実に翻訳しようとされるものです。

しかし、どの語彙を選択するべきかは、さまざまなものがありなかなか難しいものです。

そういった中で、語彙を採用する際に、微妙に教理が入る場合があります。

それでもそれが「意訳聖書」すなわちそのことばの意味を翻訳者が汲み取って、わかりやすく意味付けするもの、と割り切るのであるなら、
「現代訳聖書」で「父と子と聖霊の三位一体の神のお名前によってバプテスマを授け(マタイ28:19)」と翻訳されるようなことも許容されるのですが、そうなるとそれはもはや聖書とはいえないでしょう。


私は新改訳聖書を使っていますし、それがたとえRVギリシャ語を底本にしていたとしても、現状では最良なものであると理解しています。

でもそのような教理を翻訳に持ち込むことは新改訳聖書にもありうることです。

たとえば10年ほど前まで売られていた新改訳の第2版までは最初の前文に書かれた翻訳のポリシーにはこのようなことばがあります。

「主イエスキリストの占められるべき地位、みことばが主にささげている地位を正しく認めること。」

これは、異端的な教理から守るためには良いポリシーです。

ここで言う異端的な教理とは特にキリストの神聖を否定するような教えのことだと思います。

しかし、キリストの地位を守るために、御言葉をそのように翻訳するというのは正しくありません。

言っていることは間違っていないのだから別にどちらでも良いのですが、ただ、正確ではないということを知っておく必要があります。

たとえば第1ヨハネは新改訳第2版ではこう書かれています。

5:20 しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。

それが2017年版では改定されてこうなっています。

5:20 また、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことも、知っています。私たちは真実な方のうちに、その御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。

たいした違いではありませんが、古い訳では「御子キリストは真実な方であり、まことの神、永遠のいのち」と理解できるように翻訳されています。

しかし、新しい訳では「真実な方のの内にあり、御子キリストの内にある」と訳しているので、真実な方とキリストが別の存在であると理解する余地を残してあります。。そして、その前に、キリストが真実な方を知る理解力を私達に与えるとあるのですから、やはり真実な方とは父なる神であると理解するのが自然でしょう。

ちなみにTRから日本語に翻訳した聖書では(第1ヨハネ5章20節)ではこうなります


キリストは「まことの神であり永遠のいのち」なのですから、どちらでもよいと思われるかもしれません。

しかし、「キリスト=父なる神」と受け取れるような翻訳は、ワンネスと呼ばれる父と子を同一人物であるかのように理解する教派に傾いてしまう危険があります。


つまり、異端から守ろうとして、一つの極端に走るときに別の極端に入ってしまう危険があるのです。