牧師の負担が増えてしまった一つの理由 (25/05/14)
牧師という働きは、本人が好むと好まざるとも、教会の中で父親的な働きや機能を果たすことになります。
ですから中にははその包容力や生まれ持っての優しい心を生かして、父親的な振る舞いを立派にやりこなすことができる牧師がいます。
一方私は、できるだけ、父親代わりにならないようにしております。それは、それが私の賜物ではないという理由もありますが、一番大きな理由は、私の役割は父なる神様の元に人々を連れて行くことであって、私が父になることではないと考えているからです。
とはいえ、その様な私でも、父親になるわけではないとしても、そのような機能を果たさねばならない事が生じることはありますし、それを理解しています。
それにはいろいろなケースがありますが、(昔の教会で)何度かあったことですが、子どもの頃に父親に傷ついて育った人が、私に対してその影を投影してなのか、反発する行動をとることがあります。
本人は十分に成長した大人ですし、無意識の行動なのでしょうが、そのように振る舞うのです。
さて、ここからが本題なのですが
教会が神様にある家族であるなら、その父親は当然父なる神様です。
しかしながら、今日の教会の中で父なる神様があまり強調されている無いような気がします。
その理由の一つは、子であるキリストが、本来あるべき状態よりも強調されすぎているのではないかと感じております。
それを表しているかのように教会で歌われる賛美はイエスをたたえるものばかりです。
「聖書のほとんどの個所は父なる神をたたえておりイエス様ではない」ということから考えるとアンバランスに感じます。
私が昔いた教会では「神様はお父さん、イエス様はお兄さん」という歌が歌われておりました。
それを聞いて私は少し違和感を感じました。
それで、聖書を調べてみたら、確かにそのように書かれてありました。
聖書的な歌詞であるにもかかわらず、違和感を感じるというのは、私たちの理解が違っていることを思わされます。
それほどまでに、現在の教会では父なる神が不在なのではないかと感じさせられます。
教会に父親がいなければ、誰かがそれを埋めなければなりません。
そのしわ寄せが牧師に来ているのではないかと考え刺さられております。
もっとも、「神様を表す言葉としての天の父、神、主、キリストその違いについて」という記事にあるように、主という言葉には父なる神とキリストの両方を含んだ表現なので、全く賛美に含まれていないわけではありません、それでも、やはり、言及というか、口に出して告白が無いというのは、その機能が十分果たされていないことが分かります。