キリストの見かけの地位は時代と共に変化している (25/05/15)
まず、最初に誤解のないように言っておきますが、キリストは神であり、父なる神と一つです。
この言葉に、全てのクリスチャンは異論がないと思います。
では、「どれぐらい一つなのでしょうか?」と尋ねられたら、次のような答えが帰って来ることと思います。
三位一体の神としてそれぞれの位各を持つが一つである
天に上られ神の右の座に座しておられる
三位一体という用語はともかく、そのような考え方には聖書的な根拠があり、正統的なクリスチャンであるならその答えに同意されることでしょう。
しかし、私が語っているのはその様なレベルではありません。三位一体以上に父と子が一つであると語っているのです。
そういうと、「お前はワンネスか」と思われるかもしれませんがそういう意味ではありません。
また、今、父と子がその様なレベルで一つであると語っているわけではありません。
それは将来的にそうなると言っているのです。
つまり、私が言いたいことはキリストの地位は時代と共に変化しているという事です。
その時代変化とは次のようなものです。
.1) 創造の初めの時代〜人が罪を犯すまで
.2) 人が罪を犯した以後〜初臨(人として生まれるまで)
.3) 初臨(人として生まれるまで)〜公生涯に入るまで
.4) 公生涯〜十字架にかかるまで
.5) 十字架にかかった後に地に下られた時
.6) 天に上られ神の右の座に付かれた時
.7) 教会との結婚
.8) 新しい天と地が創造された時
多くの誤解はこれらの変化を考慮していないことにあります。
説明を短くしたいので全てを説明することができませんので要点だけを書きますと。
創造の初め、父と子は一つでした。
しかし、人が罪を犯した時に、キリストが人としてこの地上に来て贖いの代価となることを決心されました。
キリストは人としてベツレヘムに人として生まれました。
十字架ののち、天に昇られ、神の右の座につかれました。
これが現在の状態です。
多くの人は、これが完成形だと考えます。
神の右の座というのは神の地位という事だから、神である、そして三位一体の教理とも矛盾しないので、これで良いと考えます。
確かに贖いの御業としては完了しております。しかし、最終的な形態ではないのです。
最終的な形態とは黙示録 に書かれた形です。
すなわち、父なる神と一つの御座に着かれるということです。
この御言葉をギリシャ語の原語で見るなら不思議な表現です。神と子羊が一つの御座に座られているからです。