"text/html;CHARSET=x-sjis">
基礎の学びでは、すべての教えをカバーしていないし、むしろ逆の事を教えてしまい、クリスチャンを弱めることもありえる。 2025/09/23 基礎の学びの内容の一つの成果は「これまでのキリスト教的な習慣などによって『こうするものでしょ』的に考えて見過ごされていた事柄に対して立ち止まる機会を与えて、いのちある信仰生活をもたらそうとしていることです。」 具体的に言うなら、たとえば「誰かを赦すこと」についてです。 キリスト教的な正しい態度としては、誰かから害を受けても赦さねばなりません。それは聖書的です。 しかし、「ねばならない」によって、失われるものもあります。(詳細は基礎の学びのテキストをご覧ください) ですから、条件反射的に、「赦しましょう」と指導するのではなく、「気持ちを理解する」などといったことを含めて、長期目線でミニストリーをすることを推奨しているのです。 こういった手法(聖書の教えの逆張りをしているようだが、神様のご性質を知ったり、別の角度から物事を見ていくこと)には一定の成果がありますが、しかし、これによって失われるものもあります。 それを多用する時に、 神のみ心に反し、神様の恵みが当たり前のようになってしまうような危険です。 基礎の学びというものは、様々な事柄を考慮しバランスよく成長する為に入り口に過ぎません。 「教えはバランスをとるための一つの方策にすぎない。」という記事にあるように、その教えが成立するにはその過程というものがあります。 その過程を知らないで、ただ、一つの教えの結果だけを切り取ると、別の極端に入ってしまうのです。 そうすると、クリスチャンとして弱体化してしまうのです。