3月18日(日)

1日目:意識の改革

病が癒されるための3つの方法

@ 奇跡の癒し

A 自然治癒

B 医療システム

クリスチャンは主が癒しを行われた事を知っていますし、いわゆる聖霊派の教会では、現在も癒しが起こることを信じています。ですから誰かが病気になったときに癒しのために祈りますが、それと同時に医療システムというものも排除しておりません。

たまに聞く言葉は「主は奇跡によって癒しを行われるが医者を通じても癒される」。

この言葉は、バランスの取れた理性的な言葉のように聞こえますが、そういってしまうときに、その二つの方法しかないように思ってしまいます。

実際には私たちの病気のほとんどは第三のシステム、すなわち(神が備えてくださった)免疫力、自然治癒能力によって癒されているのです。ですから、癒しについて学ぶのにあたって、自然治癒能力の促進についても学ぶ必要があります。

もちろん医者にかかることは悪いことではありません。

しかし、それには限界があるし、多くの場合は言われているほどの治癒力はありません。たとえば周知の事実ですが風邪は薬では治りません。出来ることは症状を和らげるだけです。ですから、私は風邪の薬は飲みません。実は、私は10年以上前までは「風邪をひきそうな予感がしたら即座に薬を飲んでいた。」薬中毒だったのです。ことを考えると大きな転換(メタノイヤ)があったことを意味します。

また、以前の「インフルエンザワクチンは効かない」という記事にもあるように、まったくナンセンスな治療や予防方法がまかり通っているのです。それは医療界が何兆円ものお金が動く超巨大産業だからでもあります。

神がこの時代に準備されていることは、私たちの全人格的な回復です。神がどれだけの奇跡を行っていても、私たちの生き方が変わっていなければまた病気になってしまいます。神に病の癒しを求めると同時に、私たちの生き方を変えていく必要があるのではないでしょうか。

石川達三の小説「洒落た関係」に登場する産婦人科医が「性」に対して皮肉を込めて、「私たちは自動車修理工場のようなもの、人々はろくにメンテナンスもせずに車を乗り回すだけ乗って、故障した時だけ工場に持ち込んでいく。産婦人科医も人々の性の謳歌の後始末さ。」というようなせりふを言う場面があります。

同様にクリスチャンも、「自分の生きたいような生活をして、食べたいものを食べて、神が備えてくださった免疫システムの限界を何度も超え、いよいよだめになったら、医者のところに行く」そのような生活をしていないでしょうか。

神はもちろん奇跡の癒しを行うことが出来ますが、そのためにはまず、私たちの生き方を変えなければなりません。

医者でありながら自分自身がガンをわずらっているこのお医者さんもあらゆる治療の手を尽くした後に、「病いというものは生活を改めるようにという体からのメッセージである」というようなことを言っています。

私たちは、神がこの時代に私たちに与えたいと願っていることを学んでいく必要があるのです。


祈りとデボーションのテーマ

1)癒しに関して自分の分を果たさずに神を尻拭いのように考えていたのでしたらそれを悔い改めましょう。

2)柔らかな心を持つことが出来るように祈りましょう。

神はわれわれの全ての領域(考え方、食生活、医療とのかかわり、信仰のレベル)に触れようとされています。