五役者の学び (05)
5日目 預言者
先の「賜物の整理」という記事の中で、父の賜物(ローマ12:6〜8)、子の賜物(エペソ4:11)、聖霊の賜物(1コリント12:6〜11)、そして各器官(1コリント12:28)などといった御言葉を見てきました。
それらは性質、賜物、任命、役割について書かれた4つの御言葉でしたが、それらの全てに「預言」が含まれています。
このことからわかるように預言とはあらゆる角度から見て重要な働きです。
1)神の言葉を聴く
2)預言の霊
3)必要な時には与えられる
4)預言の賜物(聖霊の9つの賜物)
5)預言者という務め
すなわち、預言をする全ての人が預言者ではないということです。
教会に見られるひとつの問題は、預言ムーブメントを無視することですが、それと並んで別の極端な問題は、預言的賜物を持っている人を重要視してしまうことです。
預言的賜物を持っている人であってもほとんどの人は預言者ではありません。的確な預言をするだけであるなら、聖霊の賜物の範疇でも十分以上にすることができます。
また、たとえ預言者だったとしても、教会におけるチームミニストリーの包括的責任者は使徒的立場にある人(現状においては牧師)なので、預言者であれ預言的賜物を持ってい人であれ治められていく必要がありるのです。
通常「預言者」という言葉を聴くと旧約の預言者を思い浮かべます。すなわち単独で敵に果敢に立ち向かうエリヤのような預言者です。しかし、新約の時代は違います。チームミニストリーの中で建て上げられなければならないのです。
シンディージェイコブなどといった海外の有名な預言者が力強く語るのをよく目にしているので、預言者は大胆に語るものだという印象がありますが、預言者が表立って活躍するとは限りません。使徒に言葉を取り次ぐだけで表に出ない預言者もいます。
なぜなら預言者の機能とはキリストの体に対する目であり耳だからです。彼らはビジョンを見、神の声を聞くことがあっても、それを語る口であるとは限らないからです。
預言者の働きは聖霊の賜物の延長ではなく預言者としてのキリスト後自身の延長なのです。ですから、聖霊の賜物とは異なり(第1コリント14:3)に書かれた「徳を高め、勧めをなし、慰めを与える」以上の働きをしていくことになります。
1)指導
預言者の働きの本領は個人預言ではなく、教会単位、ミニストリー単位、時には地域や国単位を導くことにあります。
ミリアム達は自分達も神の声を聴くことができると言って預言者としてのモーセのミニストリーを批判しました。しかし、彼らには知るべきことがありました。それは預言のレベルが違っていたということです。
(詩篇103:7 主は、ご自身の道をモーセに、そのみわざをイスラエルの子らに知らされた。
ミリアム達は神の声を聞いたかもしれませんしかしそれは主の御業のレベルです。しかし、モーセに対しては、道をお示しになったのです。
2)教え
預言者はその性質上、啓示を受ける人たちです。
ですから預言者的な教師は新しい教えを発掘しキリストの体に新鮮な息を吹き込みます。
しかし、ここで注意が必要です。油注がれた教え、新鮮な教えはクリスチャンを活気づけますが、どのようなよい教え、深い教えであったとしても、それによって神が本当に願っている方向から気がそらされてしまう可能性もあるからです。
そのような過ちは 先に教師についても書きましたが 預言者と教師に共通している起こりがちなものです。ですから、チームミニストリーとして使徒の覆いの元で戦略が必要なのです。
3)裁き
イザヤがヒゼキヤに警告を発しました。
4)警告
旧約の時代から預言者の役割は警告を与えることでした。
(エゼキエル33:3 剣がその国に来るのを見たなら、彼は角笛を吹き鳴らし、民に警告を与えなければならない。
(イザヤ58:1-2)にあるように預言者の言葉は角笛の音にたとえられました。
ディビッド・ウイルカーソン師は警告の分野でもっとも活躍したミニスターです。
彼が書いた「幻」や「角笛」という本の内容は、現在の社会の様子を驚くほど描写しています。けれども、あまりにも先を見すぎていたので、理解されませんでした。
われわれが知っておくべきことは、「歴史はあらかじめ定まっていない」という記事にあるように警告の預言は回避するためのものであることです。
ですから、終末に関して、聖書にそう書いているんだから、そうなるとあきらめムードで語る人がいますが、そうではありません。それは私達の祈りにゆだねられているのです。
5)未来予知
ディビッド・ウイルカーソン師が911の数ヶ月前から何かが起こるということを察知して、教会のプログラムを中断して教会を上げて祈りに集中したといわれています。
6)「今」
預言者にとって今神が何をしているのかは感心の中心です。ですから預言的なメッセージは、説教ノートから外れて行われることも多いのです。
また、タイミングを見計らいます。同じ事をしても、以前と今とでは結果が異なる場合があります。
イスラエルの民は主を信頼せず約束の地に入っていくことを拒みました。のちに反省して、「私たちは罪を犯したのだから、とにかく主が言われた所へ上って行ってみよう。」(民数記14:40-45) と言ったときにはもうタイミングを逃しておりました。
そう、同じ事を行っているように見えてもそれはもう御心ではなかったのです。
神に従い、その戦略を行っていくのに大切なことは「タイミング」です。ですから「今」神が何を願っているのかをはかる必要があるのです。
7)燃え立たせる
預言者の働きは心を燃え立たせることです。
(ルカ24:31 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。24:32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
預言的メッセージを語る説教者はしばしば批判を受けます。内容が無いというか「神はあなたを愛している」というような聖書を読むなら明白な事実を淡々と語る場合もあるからです。そのような、わかりきった話であっても預言的なメッセージは心を開いて聞く人の心を燃え立たせます。
8)賛美奉仕の指導
賛美を導く」というタイトルにしてもよかったのですが、あえて、「賛美奉仕の指導」にいたします。なぜなら五役者の働きは聖徒を整えることだからです。
1歴代誌25:1-2)を読むなら、賛美のミニストリーはすなわち預言の働きであったことがわかります。
賛美のミニストリーには預言的賜物が必要です。ですからそれを指導する五役者も預言的でなければならないのです。
預言的賜物を持っている人は、使徒的権威(現状では各教会の牧師)の権威の下にへりくだりましょう。(1990年代前後の預言ムーブメントに混乱が見られたのは使徒的な覆いが無かったからです。)
預言に限らず、あなたが持っている賜物や戦略を生かすためにどのようにチームとしてミニストリーを行っていけるかを主に求めましょう。